4月上旬、私のブログの愛読者から一通のメールを頂戴しました。その内容は、「最近、公明新聞などで矢野絢也元委員長の批判記事が目立ちます。私は、矢野氏の歯にものを着せぬ語り口に好感をもっていました。一党の代表として貴党の一時代をリードした先輩に対して、手のひらを返したような言動には抵抗があります。井手さんの矢野氏に関する見解をお聞きしたい」(主旨)との内容でした。
 日常の忙しさに紛れて、矢野元委員長への見解をまとめる暇がありませんでしたが、ゴールデンウィークの最終日を利用して、取りまとめました。ご一読の上、ご批判・ご意見をいただければ幸いです。
政治家改革を考えるための反面教師
 矢野絢也(やの・じゅんや、1932年生まれ)氏は、1967年に34歳で大阪府議から衆院選に出馬し、初当選。その後連続9回当選しました。
 1980年12月、竹入委員長の退任で4代委員長に就任しました。
 88年には、砂利船汚職事件で田代富士男、リクルート事件で池田克也と所属議員が在宅起訴され、矢野元委員長に対する責任問題にまで発展しました。明電工事件に絡み、89年5月、委員長を辞任しました。93年6月、政界引退後は政治評論家に転身し、一時はテレビやマスコミに華々しく登場していた一時期もあります。
 私は、矢野元委員長がその責めを負わなくてはならないポイントが4つあると考えています。それは、1.明電工事件をはじめとする数々の犯罪疑惑、2.議員としての本分をはき違えた蓄財行為、3.多くの国民を惑わせた「政教一致発言」、4.支持者の信頼を裏切った忘恩の生き方の4点です。
 矢野氏のこれまでの行動は、私たちにとって政治家改革を考えるための反面教師となっています。また現役時代に、矢野元委員長の暴走を止めることができなかった、当時の党執行部の責任も忘れてはならないと思います。
 このような政治家を将来二度と出さないためにも、その実態を明らかにし、しっかりと総括しておく必要があります。
1.明電工事件をはじめとする犯罪疑惑
 明電工事件というのは、1983年から85年にかけて、節電装置メーカー・明電工の実質的なオーナーだった中瀬古功氏が起こした株取引をめぐる脱税事件です。総額21億円にも及び、株取引にからむ個人の脱税としては史上3番目に当たる巨額脱税事件でした。この事件をめぐっては、10人以上もの与野党国会議員や官僚の関与が取り沙汰されました。
 このうち、87年1月に中瀬古氏が行った10億円に及ぶ株取引の中で、株を購入した名義人に、矢野元委員長の元秘書らの名前が挙がりました。88年12月9日付の朝日新聞が報じています。
明電工10億円株取引の名義人、公明委員長秘書の名も
朝日新聞(1988/12/09)
 巨額脱税が摘発された配電盤メーカー「明電工」事件で起訴された中瀬古功被告(51)=東京地裁で公判中=が、1962年1月に行った総額約10億円の株取引に関し、株を購入した名義人計10人の中に、矢野公明党委員長の秘書や元秘書、現職公明党代議士らが含まれていることが9日までに、朝日新聞社が入手した売買を示す資料や関係者の証言から明らかになった。この取引は、国税当局の査察を受けて多額の納税資金が必要になった中瀬古被告が、手持ち株の中から計83万株を売却したもの。しかし、期待されていた株価上昇が実現しなかったため、購入者側は中瀬古被告側に買い戻しを要求。同被告側は同年8月ごろ、明電工グループ会社の名義で、購入者側の損失とならない金額で大半の株を買い取っていた。この事実を示す供述調書やメモなどは、現在、東京地裁で開かれている公判にも検察側証拠として提出されている。中瀬古被告側は「この株買い戻しのため、巨額の借金を背負うことになり、明電工グループの財務が破たんした」と供述しているとされる。

 さらに、12月13日付の朝日新聞は、第三者割当増資株にからんで1987年5月ごろに、矢野元委員長の自宅で、株取引が行われたことを指摘して、「自宅で2億円『融資仲介』」と大見出しを打って報道しました。
カロリナ株、自宅で2億円「融資仲介」 矢野公明党委員長会見
朝日新聞(1988/12/13)
株売買は否定 明電工の石田被告は「矢野氏に売った」
 巨額脱税で摘発された配電盤メーカー「明電工」の関連会社の第三者割当増資をめぐり、公明党の矢野絢也委員長は12日夕、記者会見し、昨年5月末か6月初めごろ、自宅で明電工専務の石田篤被告=脱税で公判、保釈中=に現金2億円を渡し、増資の新株20万株の預かり証を受け取った、と発表した。矢野委員長は、「元秘書と明電工側との、株を担保にした融資の仲介をした。元秘書から預かっていた2億円を渡しただけ」と説明しているが、この融資には契約書も作らなかったという。これに対し、石田被告は朝日新聞の取材に「矢野氏本人と株売買をした」と、証言をしている。(中略)
 矢野委員長らの「融資仲介」の主張に対し、石田被告は、「株を売買した相手は矢野委員長本人だ」と反論している。
 石田被告の説明によると、5月の連休前、明電工元相談役の中瀬古功被告=脱税で公判中、今月8日に保釈=から「矢野さんが引き受けてくれそうだ」と聞かされ、角田氏と2人一緒に矢野委員長の自宅を訪ねた。矢野委員長は説明を聞いて「分かりました」と了解。5月27日昼、角田氏とともに再訪し、矢野委員長宅の玄関わきの小部屋で現金2億円を手渡された。矢野委員長は1000万円の札束20個を出し、石田被告は預かり証を書いて渡した。石田被告は「銀行口座間の取引にすると、矢野先生の名前が表に出るので、私個人が預かる形を取ったものだ。株券は発行直後の6月5日か6日、やはり2人で行って矢野先生に1万株券20枚を渡した」と説明している。

 つまり、矢野元委員長は、元秘書がその株を担保に明電工に融資するのを仲介しただけと言い訳しましたが、明電工側は、「矢野氏に売った」と明言していたことになります。翌89年5月には、中瀬古氏が「矢野氏本人との取引」(朝日新聞)とも証言しています。
 当時の公明党は、議員の株取引などは、やらないのが当たり前という雰囲気でした。現職の委員長の明電工株取引のニュースには、まさに驚天動地の出来事でした。
 誰が取引したにせよ、2億円もの大金がやりとりされたことへの驚きと不審が党内には充満しました。さらに、議員報酬以外の所得がないはずの矢野元委員長が、どのようにしてそんな大金を用意し明電工側に渡したのか、すべては謎だらけでした。
 矢野委員長は、この明電工疑惑がキッカケになり、89年5月に委員長職を辞しています。5月18日付の朝日新聞は社説で、次のような記事を掲載しました。
金権政治と決別するために(社説)
朝日新聞(1989/5/18) 
 1989年5月17日は、戦後政治史の中でも長く記憶される日になるに違いない。一部野党をまきこんだ自民党を中心とする金権政治が、世論の厳しい追及によって破局を迎えた日としてである。
 リクルート疑惑に対する責任をとって退陣を表明した竹下首相と、2月の党大会で党首の座をおりた塚本民社党前委員長に続き、公明党の矢野委員長が自らの株取引疑惑をふくむ一連の不祥事の責任をとって、辞意を明らかにした。わずか3カ月間に、3党の党首が相次いで金銭にからむ疑惑で辞任に追い込まれるのは前例のない異常事態である。

 リクールト事件や砂利船汚職という同時期に発生した不祥事の責任を取る形で、矢野元委員長は辞職した形になっているものの、自らの株取引疑惑が辞職の原因であることは衆目の一致するところでした。
 こうした金にまつわる犯罪疑惑は、明電工疑惑だけに止まりませんでした。
 最近、矢野元委員長が「原野商法」ともいえる詐欺的取引に関与していたことが、被害者の証言から明らかになりました。
 被害者の一人である東大阪のKさんの証言によると、1972年9月当時、矢野元委員長(当時は党書記長)の第一秘書と、彼の従兄弟の矢野功氏らが自宅に来て、北海道の土地の購入を熱心に勧めたといいます。矢野功氏らは、矢野元委員長が「将来、新幹線が通ると言っている」などと、言葉巧みに何度も勧誘したそうです。
 Kさん親子は「矢野さんがすべて存知の安心できる話」と信じ、2カ所の土地を合計3100万円で購入しました。
 ところが、その土地は、なんと“1円でも売れない”“『タダでやる』と言っても誰ももらわない”と地元の不動産屋がいうほどの“原野”だったのです。現地の見学では、Kさんの両親は、実際に購入した土地とはまったく違う場所に案内され、すっかり騙されてしまっていました。
 この原野商法には、矢野元委員長の近親者が関わっていました。Kさんに話を持ちかけた第一秘書は、その後、明電工事件の際も登場する人物です。従兄弟の功氏は、土地取引に関わった「七和商事」という企業の副社長まで務めました。
 この事件について、当初、Kさんは自分たちのことだし、“一切口外せず、墓場まで持っていこう”と心に決めていたといいます。しかし、矢野元委員長について、党や支持者に対する裏切りや不誠実な話が入ってきたため、その気が失せたといいます。そこで、せめて直接詫びてもらいたいと、まずは彼に謝罪を求める文書を送りました。ところが、矢野元委員長は“知らぬ存ぜぬ”の一点張りで、全面否認してきたという。Kさんにすれば、到底、納得できるものではなく、公にすることに踏み切りました。

2.議員としての本分をはき違えた蓄財行為
 矢野元委員長が議員在職中、党内外に衝撃を与えたのはあの明電工疑惑だけではありませんでした。1993年6月、国会議員の資産公開制度がスタートしました。朝日新聞の見出しには「矢野絢也議員、資産10億円」との文字が躍りました。資産の内訳は東大阪市内の敷地面積560平方メートル余の鉄筋コンクリート3階建ての豪邸。東京・新宿区内の250平方メートルの豪邸。さらに奈良県生駒市内の840平方メートル余の土地で、これらを合わせると「バブル時なら20億円近かった」といいます。その他に「預金は1千万円。借金はなし」と報告されていました。同記事に大見出しで「三軒長屋から出発 30年で資産10億円」とあるように、彼が議員になる前は大阪市生野区で建坪30平方メートルほどの粗末な三軒長屋の二階家にファスナー職人の父親と母親と共に一家で住んでいました。1963年にサラリーマンから大阪府議になり、4年後に国会議員となって、30年間で資産10億円を築いた、というわけです。
 「どうやったら、そんなに資産がたまるのか。議員の収入である歳費をため込むだけでは、絶対に不可能な金額だ」、「野党の幹部が10億だよ。12年も前でだよ。あの時は皆があ然とした。恥ずかしかった」と、当時の同僚議員が語っています。同じ「朝日」記事には、社会党の土井たか子元委員長の「自己所有の土地・建物はなく、自宅は賃借、蓄えは1300方円」、「議員活動をしていれば資産が残らないのが普通です」とのコメントも出ていました。
 支持者の怒りをさらに買ったのは、この「朝日」記事に載っていた矢野元委員長のコメントでした。「井戸塀政治家が理想だが、私の場合、結果的に資産を増やすことになった」、「公明党はボランティアが選挙応援してくれるので、他党のように選挙にカネがかからず、幸せだった」と語りました。
矢野絢也議員、資産10億円(政治改革 点検・資産公開)
朝日新聞(1993/6/14 大阪版夕刊)
 政治生活三十年を経て、今期限りで引退する矢野絢也・前公明党委員長(六一)=衆院大阪四区=は、時価約十億円にのぼる資産を公表した。「井戸塀政治家が理想だが、私の場合、結果的に資産を増やすことになった」というのが、矢野氏の感想だ。
 報告書によると、矢野氏は現在、生駒山を望む地元・大阪府東大阪市の高級住宅地に鉄筋コンクリート三階建ての邸宅をもっている。敷地面積は約五百六十平方メートル。しかし、ここに住むのは親類と母親で、家族とともに暮らす自宅は東京・新宿にあり、二百五十平方メートルの土地に屋敷を構える。
 さらに、奈良県生駒市の新興住宅地に八百平方メートル余のさら地を所有。不動産業者によると、これらの不動産だけで時価は計約九億五千万円。バブル時代なら二十億円近かったという。
 矢野氏が政界入りしたのは一九六三年。建設会社の社員から大阪府議に転じた。当時の自宅は大阪市生野区の三軒長屋。ファスナー職人の父親はすでに亡く、建坪三十平方メートルほどの二階家に一家で住んでいた。祖父は東大阪市などにかなりの土地を持っていたが、父の代に十分の一ほどになり、残っていたのは「売れない土地ばかりで、だいぶ借金もあった」(矢野氏)という。
 六七年に公明党が衆院に初進出した際、「一期生」の一人として出馬。地盤の関係で東大阪市の一軒家に引っ越した。当選してすぐ党本部書記長になり、三期目に入った七三年、売りに出ていた現在の地元の家を「三千二百万円ほど」(矢野氏)で購入。四期目の七八年に周りの土地を買い足した。
 与党議員なら大臣の声がかかる六期目の八三年、東京に腰を落ち着けようと、新宿の土地を買って自宅を新築。三年後には、ここでも隣接地を買い足した。
 報告書によると、現在、預金は一千万円。株はもっていない。不動産の費用は、東大阪の土地を処分したり、借金したりして工面した、という。しかし、その借金も、報告書によると現在はなくなっている。
 議員時代の収入について、矢野氏は「政治活動は歳費中心でやってきた」という。今回の資産公開については「たまたま買った場所が、その後、地価が上がっただけ。資産家という意識はない。公明党はボランティアが選挙応援してくれるので、他党のように選挙にカネがかからず、幸せだった」といっている。

 矢野元委員長の資産形成は、「朝日」記事で、その一端が知れ渡りましが、その後に判明した資料等によると、分かっている事実だけでも次のような事実があります。
 矢野元委員長が国会議員になってからわずか5年後の1972年、三重県伊勢志摩に約1000平方メートルの土地を購入し別荘を建てています。この土地・建物は84年に、矢野氏の元秘書が役員を務める財団法人に売却され、同法人の関連企業を経て、94年に矢野氏の息子に売却されました。更に、息子は2002年、矢野氏と深い関係のあるB氏の企業に売っています。
 この別荘購入の翌年の73年に東大阪市の駅前の一等地に鉄筋コンクリート3階建ての邸宅と土地を購入。当時約5600万円で現金で購入されていたといわれています。78年には隣接地を買い増しし、土地面積は560平方メートル余となっています。
 そして83年には、この東大阪の土地・邸宅を所有したまま、新たに東京・新宿区二十騎町の土地約250平方メートルを購入し、翌84年に自宅を新築しています。
 さらに97年、二十騎町からすぐ近くの市谷甲良町に364平方メートルの土地を購入し、翌年にそれこそ新豪邸を建て、06年1月現在、ここに居住しています。
 このうち、東大阪の土地・建物は99年に、二十騎町のそれは2004年に、先のB氏の企業に売却していますが、一時期、現在居住している甲良町と合わせ、3つの土地・建物を同時所有していたことになります。
 この他にも、矢野氏は1974年、奈良県生駒市の山林を、かつて勤務していた大林組から購入しています。その山林はその後、土地区画整理により地目が山林から宅地に変更され、96年に宅地として844平方メートルを売却した際は、巨額の売却益を得ていたと思われます。
 なお、矢野氏はゴルフ会員権もいくつも持っていたといわれ、そのうちの一つ 「奈良国際ゴルフ」は約500方円で購入したといわれています。関西の名門の同会員権は一番高い時には時価で1億円とか2億円にもなったといいます。
 矢野元委員長に問われるのは、一体、どのようにして、これほど膨大な財産形成ができたのかという疑問です。国会議員という公人の立場に長くあったものとして、国民に対し、在職中の資産形成についての説明責任が当然至極にあるはずです。また党の書記長そして委員長の座にあった矢野氏の下で真剣に戦った議員・党員・支持者に対しては、なお更のこと説明すべき道義的責任があるはずです。
 とりわけ、その資産形成が「議員の収入である歳費をため込むだけでは、絶対に不可能な金額」と国会議員経験者が一様に指摘するだけに、そこに何かやましい不正や不明朗な事がなかったかどうか。法に触れなければ、バレなければ何をやってもいいのか。誰もが思うそんな疑問に矢野氏は誠意を持って答える責務があります。
 それにしても、矢野元委員長は「何のため」に30年も議員をやってきたのでしょうか。結局は金儲けのためにうつつを抜かしただけ、と言われても止むを得ないではないか。議員としての本分をはき違えた、元委員長の姿勢には強い憤りを感じます。

3.多くの国民を惑わせた「政教一致発言」
 矢野元委員長は、1993年7月に議員を引退すると、「文藝春秋」10月号から「手記」なるものを執筆し始めました。この中では、公明党と創価学会のやり取りを面々と綴り、“政教一致と言われても致し方ない面がある”などと、あたかも党と学会に問題があるかのようなことを言い出しました。
 当然のことながら、この「手記」は待ってましたとばかりにアンチ勢力に党や創価学会攻撃の格好の材料として国会質問で使われました。7月の衆院選では、自民党が過半数を割り38年ぶりに下野。政権復帰をめざして、非自民からなる8会派の細川連立政権に、怨念にも似た激しい攻勢を掛けていました。その攻撃の中心は、連立の中軸となっていた公明党とその支持団体の創価学会に集中していました。
 そうした政治状況に照らせば、自分の書いた手記がどう使われるかは、彼ほどの政治的キャリアを積んだ人間なら、もちろん分からないはずがありません。むしろ、かつて自らが指揮をとった公明党と多大な支援を受けた創価学会に、後ろ足で泥をかける裏切り行為そのものであったと言っても過言ではありません。
 翌94年、彼は相変わらず手記を書き続けながら、激動の様相を呈していた政界の裏で暗躍していました。94年4月に細川首相が自身の金銭問題を追及されたことなどで突如、辞職。4月25日に羽田政権が発足しました。しかし直後に、社会党連立政権から離脱し、羽田政権は少数与党になって、わずか2ケ月の短命に終りました。
 6月30日には、自民党、社会党、新党さきがけによる、村山富市社会党委員長を首班とする、あの悪名高き「自社さ政権」が発足します。政策や理念、方向性を無視した「野合政権」と揶揄されました。自社さ政権発足直前の6月23日には、反創価学会の宗教団体などからなる「4月会」が結成され、政権を作った自社さの幹部はその結成総会に揃って参加、口々に公明党と創価学会に対するいわれなき批判を繰り広げました。実は、この四月会に名を連ねた議員の多くが、自社両党の首脳らとともに94年3月の矢野事務所開設に集っていました。
 まさに、「引退後の自らの拠り所を作るためには手段を選ばず」。これが、矢野元委員長の言動の本質であったと思われます。
 それにしても思い出されるのは、矢野元委員長の議員引退直後に開かれた93年8月の公明党臨時全国大会での挨拶です。
 矢野氏は、挨拶の中で「心からの感謝の気持ち」を述べ、発足したばかりの「(細川連立)政権がより一層長続き」することを願っているとし、そのために「公明党の美風である団結・結束」を訴えています。そして「今後、いざ鎌倉という時が万が一があったなら、どうぞ私どもに声を掛けていただきたい。……老骨にむち打って、党や新しい政権の前途を妨げるような者がもしあるならば、微力だがお手伝いにはせ参じる気持ちを持っている」と語っています。この時の挨拶は一体何だったのでしょうか。
 9月発売の雑誌の原稿は、この挨拶を行っていた時点ですでに執筆が始まっていたことでしょう。火を付けて回っておきながら、火を消すフリをして水をかける。真義のかけらもない「マッチポンプ」人間が矢野氏であったということになります。

4.支持者の信頼を裏切った忘恩の生き方
 矢野元委員長は、1989年に明電工事件に絡んで委員長を辞めた際に、「議員を辞めたら大阪に帰ります。皆さんと一緒に自転車で回ります」と約束していました。たくさんの支持者の方が彼の言葉を聞き、そして、彼を信じ、待っていました。ところが、彼が自転車で回るのを見た人など、誰一人いません。
 また、議員を辞し後輩に引き継ぐ1993年7月の衆院選の公示日のこと。矢野元委員長の後輩が選挙事務所で第一声を上げる時、彼が姿を見せない。いったい、どこへ行ったんだと皆が探したら、何とゴルフ場にいたことが後に判明しました。党員・支持者が総立ちになって戦ってくださっている時に握っていたのは、応援演説のマイクじゃなくて、ゴルフクラブだったわけです。
 矢野元委員長の“ゴルフ狂”ぶりは度を超していたといわれています。わざわざ三重県伊勢志摩の名門ゴルフ場の隣接地に別荘を構えるほどでした。現職時代、伊勢志摩の別荘の近くとは別の三重県内の名門ゴルフ場へ、彼はわざわざヘリコプターで飛んできてプレーを楽しんでいたと言うことです。公明新聞のOB議員の座談会によると「目撃した人の具体的な話はこうだ。昭和50年代のある日、コースでプレーしていた。すると、ゴルフ場の敷地内にヘリコプターが、ごう音をたてて降りてきた。驚いていると、キャディーがこう言った。“公明党の矢野さんですよ。いつも来ておられますよ”と」「ゴルフ場従業員の間でも、彼はよく知られた“常連”だったようだ」と語られています。
 公明党綱領には、「『公明党』は、庶民の中から誕生した『庶民の党』であり、何よりも庶民の喜びや悲しみを共にする中にこそわが党の存在性があります。われわれは、この『庶民の党』としての名実を何よりの誇りとし、草の根の庶民大衆とともに日本と世界の希望あふれる新たな地平を切り拓くベく力強く前進するものです」とあります。
 支持者の真心からの応援に、赤誠の行動と実績で応えていくのが公明党議員の生き方であると確信します。自らの蓄財と名誉のために、いくら感謝しても感謝しきれない支持者や党員、同僚議員を裏切った矢野元委員長の罪は、筆舌に尽くせないものがあります。
参考:続記者座談会「政治家改革の視点」