今日9月29日は、日本と中国の間に日中友好条約が結ばれた35年目の節目の日(1972年9月29日)です。
参考写真 国交正常化交渉が行われた当時は東西冷戦のまっただ中で、日本国内の世論をまとめることも困難な時代でした。対外的には台湾との国交断絶に伴う問題や、中国とソ連(現・ロシア)、日本と米国との関係など、さまざまなハードルが連なっていました。しかし、両国は「小異を残して大同につく」(故・周恩来首相)の精神で対話を尽くし、日本と中国の戦後に終止符を打ったのです。
 この困難な対話が実った背景には、日中戦争の不幸な時期があったにもかかわらず、戦後も日中の間には国民レベルの経済交流が途絶えなかった事実、また、1000年をはるかに超える長い歴史の中で培われてきた日中両国民の相互理解と相互信頼があったことも忘れられてはなりません。まさに日中国交正常化は国民レベル、民間レベルのつながりが基礎となってできたと言っても過言ではありません。その中にあっても、公明党創立者の池田大作創価学会名誉会長が1968年に発表した「日中国交正常化提言」は、その後の日中間の友好拡大の源流となったことは否定にできない事実です。
 その精神を受け継いだ公明党は、政治・外交レベルで日中国交正常化に重要な役割を果たしたのみならず、国民レベルの交流促進にも全力を挙げてきました。
 1977年秋、井手よしひろ県議は、公明党の日中友好青年交流団の一員として北京・上海を訪れました。国交回復から5年余り、中国国内も4人組事件の混乱が続いていた時期の訪中でした。400名の青年が中国に渡り、中国の若者と友好の絆を結びました。こうした地道な努力が現在につながっています。
 35年の歳月が流れ、日本と中国の関係も大きく変わろうとしています。今年、社説で日中友好35周年を取り上げたのは毎日新聞だけでした。その取り上げ方も、「日中国交35年 戦略的互恵関係を深めよう」と題し、「中国が経済成長を始める手助けをしたのは日本の対中円借款だった。それが2008年度で終了する。日本が中国を援助する関係が終了したのである。日中間の『戦後』が終わった象徴である。日中両国は、次の日中関係を構想しなければならない」と述べています。その上で、「いま『日中友好』の役割が終わり、『戦略的互恵』がそれに代わろうとしている。東アジア経済が日本一極から、日本と中国という二極構造になり、東南アジアだけでなく豪州、インドまで視野に入れた巨大な市場が急速に形成されようとしている。中国は、すでにアジア共通市場へ向けて動き出した。米国も、中国を「責任ある利害共有者」と認め、アジアにおける影響力確保に努めている。日本は一歩立ち遅れた。アジアという巨大市場の中で日中が共存共栄の関係を作り出さなければならない。それが戦略的互恵関係である」と結論づけています。
 確かに、世界経済の中で日本と中国とはライバルとして、パートナーとして今まで以上の密接な関係が望まれます。しかし、その根本には両国民の信頼関係の醸成が必要であることは論を待ちません。その意味では、毎日の社説には違和感を感じます。
35年目以降の日中の課題:環境問題
参考写真 今年4月に来日した温家宝首相は国会での演説の中で、中国の発展にはまだアンバランスがあり依然として発展途上国であると述べた上で、「資源節約型、環境にやさしい社会を建設し、経済と社会の全面的かつ調和のとれた持続可能な発展を促進する」との展望を語りました。
 これはまさに日本も含め、現代世界が目指すべき社会像であり、日中両国は共にこの理想に向けた新たな挑戦を開始し、日中の新しい時代を開く必要があります。
 そのために公明党の太田昭宏代表は1月、衆院代表質問で、日中両政府が掲げている戦略的互恵関係に関し、その具体的展開として「日中環境パートナーシップ」の構築を主張、資金面での支援体制として、日中共同出資による基金の設立を提言しました。
 日本には省エネと環境の問題解決について、苦しみの中から生み出してきた豊富な技術がある。中国が日本のこうした技術を生かし、かつての工業先進国が苦しんだ問題に足をすくわれずに調和のとれた持続可能な発展を実現できれば、後に続く多くの国の手本になれるし、また、地球環境の保全、エネルギー問題にとっても世界に貢献できます。
 日中間には領土問題も横たわり、経済関係でも知的財産権や食品の安全性などのトラブルも絶えません。だからといって対峙するだけでなく、両国が同じ目標に顔を向けて共に挑戦を続けることで新たな地平を広げることが大切ではないかと思います。
(写真は、公明党の青年訪中団に参加した井手県議が撮影した当時の中国の模様。1977年秋撮影)