参考写真 8月15日、戦後63回目の終戦記念日を迎えました。言うまでもなく8月15日は、すべての戦争犠牲者の方々に祈りを捧げ、「不戦への誓い」「平和への誓い」を新たにする日です。昭和20年8月6日と9日に広島と長崎に原爆が投下され、約30万人以上の方々が犠牲になり、終戦を迎えました。いわゆる太平洋戦争によって、国内においては約310万人、アジア諸国においては1500万人とも2000万人とも云われる膨大な犠牲者を見たのです。
 日立市においても、終戦の年の6月10日、B29爆撃機108機による日立製作所海岸工場への絨毯爆撃で、一般市民1,275名が犠牲となりました。7月17日には、戦艦による艦砲射撃で1,354名の市民の生命と約4,000戸の民家が失われました。さらに、7月19日にはB29爆撃機128機による焼夷弾攻撃で、日立市街地全戸数17,500戸のうち14,000戸(約84%)羅災、焼失しました。
 こうした戦争の悲惨さを語り継ぎ、民衆レベルでの平和運動を継続しようと、毎年、「8・15平和集会と平和行進」(主催:平和をまもる日立市民会議)が行われています。
 今年で42回目を迎えるこの催しに、井手よしひろ県議ら公明党市議団も参加しました。日立市助川町の市役所からJR常磐線日立駅までの約1.5キロを平和の尊さを訴えながら、県議や市議、労働団体、一般市民など約250人が行進しました。
 32.9度、不快指数85%を記録した蒸し暑さの下、参加者はのぼり旗や青いうちわ、プラカードを手に、行き交う車や歩行者に手を振りながら、戦争のない平和な世界をつくろうと訴えていました。
 日立駅前では終戦五十周年を記念して設置された「平和の鐘」の前で、正午に鳴らされた鐘に合わせ一分間の黙とうを捧げ、解散しました。
地名に込めた願い:戦後63年/日立・平和通り
毎日新聞(2008/8/15)
◇平成の若者受け継ぐ
 「僕たちが戦争を体験した最後の世代でしょう。経験を何としても伝えたい」。牧師、藤崎信さん(81)は話す。毎年8月15日、同市の平和通りで「平和行進・集会」(平和を守る日立市民会議主催)が開かれる。藤崎さんは市民会議の代表世話人だ。
 藤崎さんは陸軍の砲兵部隊に従軍した。「兵隊に行った責任を感じています。戦争は始まったらすべてが終わり。それが私の原点」という。1954年に日立に赴任したが「大きな戦禍を受けた日立はつらい記憶を語りたくない人が多く、当初は反応がよくなかった」という。
 しかし、69年の8月15日、萬田五郎市長(当時、故人)に「5、6人でもいいからやりましょう」と励まされ、三十数人で最初の平和行進を始めた。「継続が大切」と続け、今では毎年約250人が参加する。「若い人が多く、僕は希望を持っています」。藤崎さんは今年も行進に立つ。
 参加者は正午に駅前の「平和の鐘」前で黙とうする。
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 日立市は45年6、7月に空襲、艦砲射撃を受けた。最も戦災の激しかった助川町にある市立助川中の教室に生徒たちの声が響く。朗読劇「語り継ぐ 日立の戦災」の練習が先月から続いている。3年生8人が資料や戦争体験者の聞き取り調査などを通じて脚本化した。
 朗読は清野大朔さん(15)▽久能美那さん(14)▽草野まいさん(14)▽坪和真莉さん(14)の4人で、鈴尾洋子教諭の指導を受けている。生徒たちは「日立がすごい空襲に遭ったことはびっくりした。戦争は怖い」「この時代を生きている自分たちは少しでも小さな争いをなくしたい」。鈴尾教諭は「生徒たちに平和や命の大切さについて考えてもらいたい」と話す。
 15日の午後1時半、日立シビックセンターで開幕する。生徒たちは白ブラウスともんぺ姿で語りかける。
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 平和通りの名前が決まったことを知らせる51年12月5日付の「日立市報」は「日立の繁栄は平和通りから−−日本の繁栄は日立市民の平和を愛する心から」と書く。平和通りの心は平成生まれの中学生たちに受け継がれている。