6月28日、妻と共に東京都議選の応援のため、江戸川、板橋、北、足立区などを回りました。
 知人や友人に都議選公明党候補への支援をお願いすると、「茨城の県議会議員が、なぜ?東京の応援」と訊かれます。確かに、一般の方にとってこの疑問は当然かもしれません。しかし、私たち地方議員にとっては、地方自治体が国の政策をリードするモデルケースとして、東京都政は非常に重要なのです。公明党は東京都政の中で、様々な実績を積み上げてきました。国政レベルでは野党であった時代でも、東京都政を通して実現し、それが国の政策を方向付けた実績はたくさんあります。乳幼児医療費の無料化、児童手当制度、駅や公共施設のバリヤフリー化など、都議会公明党の実績は、全国へ波及しています。その意味で、東京都議選の勝利は、国政規模の選挙にも匹敵する重要な意味合いが、公明党にとってあるのです。
 6月26日付の公明新聞に、約40年間、都職員として都政に携わってきた続訓弘元副知事(元参院議員)が、都議会公明党の都政に果たした役割を語った記事が掲載されていましたので、以下ご紹介します。
都議会公明党は「私心」がなかった。
全員で議論し、政策提案していた。
一貫して都政を支えてくれた。
 東京都の職員として約40年、つぶさに都議会公明党の行動を見てきた。
参考写真 そこに貫かれていたのは、「大衆の中へ」「都民福祉を実現させたい」という議員同士の強い絆だ。そこには「私心」がなかった。
 「都民のために」という姿勢が根本にあるから、自分の選挙区に限らず、例えば23区内選出の議員が、多摩地域や島しょ部など、どこへでも足を運んで現地調査していた。
 公明党は「現場第一主義」だから、必ず現場へ行って情報を集め、議員団全体で議論し、具体的な政策を提案していた。その提案を私たち都の職員が、予算を組んで実行する。そういう関係性だった。
 例えば、予算が足りない場合、「ここが節約できるじゃないか」「こうやれば財源を生み出せるではないか」と指摘してくれた。
 この姿は、一貫して変わらなかった。都知事や都職員も、いや他党の議員だって、一目も二目も置いていた。「公明党にはかなわない」という“妬み”もあったかもしれない。しかし、公明党は一貫して都政を支えてくれた。
(写真説明:1964年に県議会公明党が行った「母子寮総点検」。その結果、寒風が吹きすさぶ6畳一間の部屋に、3組みもの親子が暮らす実態が浮かび上がりました。都議会での公明党都議の追求に、母子寮は2年後に鉄筋コンクリートの建物に、一世帯一部屋が実現しました)
「現地調査」は、お家芸だった。
“都民の声”を反映させたのは都議会公明党だけだった。
 公明党のお家芸は「現地調査」だった。「大衆の党」「庶民の党」として“都民の声”を吸い上げ、具体的に都政に反映できる唯一の政党だった。
 公明党が粘り強く提言したことは、必ず実現した。例えば、多摩都市モノレールだ。
 公明党が初めて議会で取り上げた時、私は正直、「とんでもないことを提案するな」と思った。当時は夢のような話だったからだ。
 しかし、公明党は「“交通過疎問題”を解消してほしい」という住民の声を代弁し、コツコツと推進した。
 毎回の定例会質問で取り上げ続け、本当に熱心だった。実現した今、多摩地域の重要な足になっている。
参考写真 有名な「隅田川し尿不法投棄問題」も、住民の声を受けた公明党の現地調査があったからこそ解決した。現場へ行って、不法投棄の実態を暴いた。それがその後の、都の上下水道整備につながった。
 こんな事もあった。勤務時間中、私たち都職員の仕事場は空席が目立っていた。公明党は、私たちの仕事場をわざわざ見に来た。勤務時間中に職員が席にいない。どこへ行ってるか分からない職員すらいる。これが「人手は余っている」という話につながることになる。
 だから公明党は、行政改革の一環で、都の職員を削減させた。ただし、一気に退職させず、新職員を採用しない不補充という「知恵」を出して、財政を安定化させた。他にも、都の監理団体(外かく団体)数の半減や役員報酬のカット、退職金も廃止させた。こうした行政改革は、公明党にしかできなかった。
(写真説明:1965年隅田川に大量のし尿が不法投棄され、悪臭に悩む周辺住民からの訴えに、都議会公明党は汚物垂れ流し問題の追及を開始。しかし都側は「知らない」の一点張りで実態を隠そうとしました。それならば実態調査をするしかないと実態調査を行い、し尿を入れている船底まで調査、そこでタレ流しを隠ぺいするための真新しい釘を発見!投棄船は、し尿を東京湾外に運ばず、隅田川に不法投棄していた証拠を示されました。タレ流しを行っていた業者は一掃されました)

都議会公明党に相談すると「知恵」を出してくれた。
頼りになった。
 1960年代後半のころは、「保育所を“郵便ポストの数”ほどに増やしてほしい」というのが母親たちの願いだった。
 だが実際は、都の予算ではそんなには増やせない。このため、3〜5人のお母さんが協力し合い、無認可の保育を行っていた。そのうち、「そうした施設に、都が補助してはどうか」という話が持ち上がったが、他党からは「公でないのに税金を使うのは反対だ」という声が上がった。
 しかし、公明党に相談すると、「いい政策じゃないか」と賛成してくれた。本来なら都が施設をつくって、子どもの面倒をみるべきなのに、それができない。何とかしようという時に、真っ先に賛成したのは公明党だった。当時から子育て支援に真剣だったからだ。
 現在の都営地下鉄・大江戸線(同12号線)の建設もそうだ。これは美濃部都政時代に、財源難で“お蔵入り”となった課題だった。
 その後、85年ごろから新宿副都心への都庁舎移転に対して大反対が起き、特に下町方面の都議が激しく反対していた。
 そんな時に公明党は、「大江戸線を、下町都民の新宿副都心までの足として復活すれば、広く都民に理解してもらえるのではないか」と提案してくれた。こうした「知恵」を出してくれたのが公明党だった。
 公明党がしっかりしていたから、都政もしっかりやってこれた。
 個々の議員でなく、一つの会派として結束した発言力を持っている公明党だからだ。この勢力を減らしてはならない。公明党がいるからこそ、都民の要望を実現することができる。公明党の議席は断じて減らしてはならない。
 私が都庁で働いていた時代、公明党は終始一貫して都政を支えた。公明党は、自分の党のためではなく、本当に“都民のため”に仕事をしている。だから、信頼して付き合えた。公明党には、本当に「私心」がない。これが一番の公明党の強みだ。

【略歴】つづき・くにひろ 元東京都副知事。元総務庁長官。元参院議員。1930年熊本県出身。53年東京都庁に入庁。都財務局主計部長、同財務局長などを歴任し、83年に東京都副知事に就任(2期8年)。鈴木俊一知事の下、膨大な赤字財政の立て直しに卓越した手腕を発揮。マスコミからも「名副知事」と評価された。中央大学卒、専修大学大学院修士課程修了。