南三陸町防災庁舎
 赤茶けて鉄骨だけとなった建物が、今も大津波の脅威を物語る宮城県南三陸町の防災対策庁舎。その県有化を検討するため、今月中に県が南三陸町と協議することを村井嘉浩知事が先日、明らかにしました。
 東日本大震災を後世に伝える遺構として、保存の是非が議論されている宮城県南三陸町防災対策庁舎について、宮城県が震災から20年が経過するまでの間、県有化する方向で検討を進めています。43人が犠牲となった防災庁舎をめぐっては、遺族や住民の間で「保存」「解体」の意見が分かれています。結論が出るまでに一定期間を設け、町の負担軽減のため、県が主体的に維持管理する必要があると判断しました。
 県が防災庁舎の県有化を検討しているのは、2011年3月11日の震災発生から丸20年となる31年3月10日まで。今月中にも、県が町に打診する見通しです。
茨城県議会公明党の第2回現地調査 県有化によって猶予期間を設ける背景には、被災した直後は保存か解体かで議論が分かれた世界遺産の原爆ドーム(広島市)が、後に保存されるに至った経緯があるとみられます。ドームは原爆投下の1945年から21年後の66年、広島市議会が「原爆ドーム保存を要望する決議」を可決。広島市はこれを受け、保存にかじを決断しました。原爆ドーム保存への流れを作ったのは、被爆によって16歳で生涯を閉じた楮山ヒロ子さんが、つづった日記と、それに感銘を受けた子どもの団体「広島折鶴の会」の運動でした。
 一方、宮城県女川町では、女川第一中学校(現女川中)の生徒たちが「後世に教訓を伝えたい」とアンケートを行い、津波で倒壊したビルの保存を町に要望。募金活動も繰り広げ、「いのちの石碑」を建立しました。石碑に輝く「千年後の命を守るために」の文字。そこには「3・11を直視し、前へ進もう」(『命みつめて』鳳書院)との子どもたちの思いが刻まれています。
(写真下は、茨城県議会公明党の第2回東北3県被害調査。2011年7月7日)