第20回全国納豆鑑評会 皆さんは納豆がお好きですか?茨城県の名産と言えば、やはり納豆をおいて他にはありません。今、テレビやマスコミで話題になっているのは、納豆の妖精「納豆ねば〜る君」と糸を引かない納豆「豆乃香」です。
 ねば〜る君は、梨の妖精「ふなっしー」の人気にあやかって、茨城の非公認キャラとしてブレークしています。
 「豆乃香」は、茨城の納豆業者と茨城工業技術センターが、「外国人でも食べやすい納豆をつくれないか」と、納豆菌の培養を繰り返して糸引きの少ない変異菌を見つけ出し、昨年4月に特許を申請しました。
 この菌を使った新たな納豆を豆の香りと書いて「豆乃香」と、ブランドを統一。今年1月末、フランス・リヨンであった国際外食産業見本市に初めて出展したところ、美食の国・フランスの食品関係者の間で話題が沸騰しました。
 日本のソウルフードとも言われる伝統食“納豆”。その歴史の裏には、社会環境の激変の中でも見事に変化に対応してきた事実があります。

 そもそも、茨城が納豆の名産地として評価を受けたのは、「天狗納豆」の笹沼清左衛門の活躍がありました。
 それまで、大豆といえば、大粒の大豆が主流でした。しかし、茨城の大豆の生産地であった那珂川流域や鹿島地域では、台風の影響もあり、小粒の大豆しか出来ませんでした。繰り返し台風の被害を受けていた茨城県では、早生で3カ月程度で完熟する小粒の大豆しか生産できなかったのです。
 これを逆手に取ったのが、天狗納豆でした。小粒の大豆で納豆をつくってみたら、その口当たりが独特な風味を醸し出したのです。その新鮮な味わいが「水戸の納豆は小粒で旨い」と評判になったのです。
 さらに、天狗納豆は、販売の方法も大きく変えました。当時の納豆販売は、売り子さんと呼ばれる行商人が売り歩くスタイル。たくさんの納豆を担ぎ、得意先を一軒一軒訪問する重労働でした。天狗納豆が創業したのは、明治22年。折しも、水戸と栃木県小山市をつなぐ水戸線が開通しました(常磐線が今のような路線となったのは明治38年です)。たくさんの旅行客で水戸駅前が賑やかになりはじめていました。そして、その賑わいに注目したのが天狗納豆。人がたくさん集まる駅前広場で、旅行客への土産物として納豆の販売を開始。水戸の観光名所である偕楽園の観梅でも、納豆を売りはじめました。全国から集まる観光客が土産物として納豆を持ち帰ったのです。土産物の納豆はそれぞれの地域で食卓にのぼり、納豆といえば茨城・水戸というイメージを定着させていきました。これが、いわば第一次納豆革命です。
参考:水戸納豆の秘密
 次に起こったのは大量生産、大量物流革命。「おかめ納豆」のブランドで有名なタカノフーズは、いち早く納豆の量産体制を整備し、他社に先駆けてカップ納豆やミニトレー納豆などの商品を全国に供給しました。手仕事の納豆づくりを工場で生産するという体制が確立しました。また、関西では納豆は売れないという、当時の常識にも挑戦しました。業界の中では、先駆けて営業の拠点や生産施設を西日本に整備しました。
 いまや、茨城県小美玉市に本社を置くおかめ納豆は、一日400万食を生産し、日本一の納豆メーカーになりました。この大量生産、大量販売が第二次納豆革命です。
参考:タカノフーズのHP

豆乃香 そして、第3次納豆革命、今までの常識を打ち破った「糸の引かない、ネバネバが少ない納豆=豆乃香」の登場です。
 JCO事故の風評被害などの影響で、大量生産、大量販売の競争に脱落した、納豆の老舗「くめ納豆」は6年前に破綻しました。くめ納豆の従業員が再建した企業は、大手食品会社の支援を受けながら、規模は当時の4分1程度に縮小したものの、5年間で再生を果たしました。そして、再生後初の取り組みが、今回「豆乃香」を開発し、フランスでの品評会に挑戦だったのです。日本の代表的な食文化が、世界に向かって挑戦を開始しました。これが第3次納豆革命です。
 今までの第1次、第2次の納豆革命が、茨城の郷土料理を日本中に普及させたように、豆乃香はヨーロッパやアメリカ、アジア、アフリカ、イスラムの国々など全世界を標準に入れています。
世界へ羽ばたけ!“粘らない”納豆"

 納豆の歴史をひもといただけでも、そこには大変な環境の中で、逆境の中で、活路を見いだそうとした人々の姿が見えてきます。納豆いう日本の食文化も、それを常識にとらわれず、日本中に、世界中に広めていこうと戦った人たちが見えてきます。
(このブログ記事は、3月1日に行われる県立多賀高校の卒業式の祝辞のためにまとめた原稿です)