平和安全法制の衆議院での議論も、終盤戦に差し掛かった感があります。中央公聴会も終わり、議論もある程度集約されてきたと実感します。
 それは、多くの憲法学者の皆さまの主張するところの、憲法の文言に忠実に論理を積み重ねて行く生き方と政治家を中心とする現実の中で、憲法の精神をいかに活かしていくかという生き方の対立だと思います。
 これは、6月22日の平和安全法制に関する特別委員会の参考人招致で、小林節慶応大教授の答弁に端的に表れています。小林教授は「平和安全法制は“違憲”である」との強い主張を繰り返しています。しかし、その上で、国会で政治家が判断することの意味も正確に捉えられています。少し長くなりますが、衆議院の会議録から引用します。

大串博志議員(民主党)
 憲法審査会で三人の憲法学者の皆様が違憲だという考え方を述べられたところからいろいろな議論が起こっているわけでございますけれども、また小林先生にお尋ねしたいと思うんです。
 よく、憲法のことを判断するのは最高裁なんだ、最高裁なんだから、逆の意味は、憲法学者の方々の意見というのは軽く見ていいものだみたいな雰囲気を私は受け取ったんですけれども、私も法学を学んできて思ったのは、最高裁の、いろいろな判例の勉強もします、勉強してきた中で、最高裁が、あるいはいろいろな裁判所が判例をつくっていく、裁判の判断をしていく中において、やはり憲法学界あるいはいろいろな法学界における学者の先生方の通説あるいは多数説あるいは少数説、これは現状あるものとして、それを前提として、それを踏まえた上で裁判所もいろいろな判断をしていっている。そういう意味において、やはり学界の説というのは大変重要なものではないかと私は思うんですね。
 先ほどPKOの話がありましたけれども、PKOのように新法をつくったときと今回の場合はかなり違っていて、何十年という憲法解釈が既にあって、議論の積み上げがあって、政府答弁があって、それを今回変えていこうという話と随分違うんじゃないかと思うんです。そういう意味で、積み上げという意味においては、学界の議論も積み上げが相当あった中で、これを、学界の声を無視していいものかという論点は私はあると思うんですね。
 先生にお尋ねしたいのは、いろいろな、裁判実務等も含めてこれから行われる中で、やはり学界の声というのは相当無視できない、これが日本の法学界の実態ではないかと思うんですけれども、いかがでしょうか。

小林節慶応大学教授
 難問ですけれども、ただ、一般論から入りますと、憲法の有権解釈をする権限は、国会と内閣と最高裁にそれぞれ対等にあるんですね。まず、内閣が政策目標を決めるに当たって、どこまで憲法で許されているか、内閣法制局の意見を聞きながら内閣の解釈を固める。そして、国会には衆参にそれぞれ法制局があって、その意見を聞きながら、国会としての、要するに法律が通ったということは合憲ということですから、有権解釈。それが、後に事件があって数年後に最高裁にたどり着いて、最高裁がその事件の限りで有権解釈をする。それがもし違憲だったら、尊重して、そこから今度、話がめぐっていくわけですよね。
 学者の仕事は何かというと、今回もそうなんですけれども、政治家というのはそれぞれ現実と向き合っています。ですから、国会にもたくさん法律家たる政治家がおられますけれども、その方たちは政治家として言動をしておられますよね。だから、やはり必要優先の議論をなさる。それに対して、過去、現在、未来にわたって一貫した法治国家でなきゃいけないという点から法制局の方たちもお話しするし、我々も、我々は、逆に言えば、利害を超えた世界の、坊主みたいなものでありまして、大学というところで伸び伸びと育ててもらっている人間ですから、利害は知りません。ただ条文の客観的意味はこうなんですという神学論争を言い伝える立場にいるわけです。
 それは当然参考にしていただかなきゃ困るので、事実として、そうか、神学でいくとまずいんだ、ではもとから変えていこうというふうに政治家が判断なさることはあると思うんですね。
 そういう意味で、我々は字面に拘泥するのが仕事でありまして、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、それはそちらで調整なさってください。我々に決定権があるなんてさらさら思ってもいません。問われたから、我々の流儀でお答えしたまでのことでございます。