茨城の海
 茨城県の地元紙「茨城新聞」の6月6日付け紙面に、創価学会池田大作名誉会長の特別寄稿「多彩な人材育む茨城」が掲載されました。これは、茨城新聞の創刊125周年を記念して寄稿されてものです。
 このブログでは、池田名誉会長が茨城の人材を紹介した部分を引用させていただきます。
創価学会池田大作名誉会長の特別寄稿「多彩な人材育む茨城」
茨城新聞:2016年6月6日
 試練の「茨の道」を踏み越えてこそ、人材の城は築かれます。私の見守る茨城の青年たちも、昨秋の水害の折、迅速に“かたし隊”を結成し、復興に尽力してくれました。“かたし隊”とは、「片付け」とともに、新たな一歩を一緒に踏み出して、皆を「勝たしたい」との願いを込めた命名です。愛する故郷のために、労苦を惜しまず奮闘する中で、一段と成長し、信頼の連帯を広げる若人は、何と頼もしいことでしょうか。
 古来、茨城は「人づくり」の伝統光る天地です。江戸時代、最大規模の藩校として名高い水戸藩の「弘道館」は、昨年、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されております。明治に入ってからも、この弘道館の精神を継ぐ自彊舎から巣立った逸材たちが、勇んで新時代の道を開いていきました。
 女子教育のさきがけであり、日本最初の保母として、幼児教育の花を咲かせた豊田芙雄さん(水戸出身)の功績 も、忘れることはできません。
 今の城里町の出身で、日本初の女性の小学校教師となった黒澤止幾さんも、勇敢な先覚者です。
 北茨城で創作に励んだ横山大観画伯が、「人聞かできてはじめて絵ができる」「まず人間をつくらなければなりません」と強調されたことが思い起こされます。
豊田芙雄:女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者
 豊田芙雄(とよだ・ふゆ:1845〜1941年)は、水戸藩士桑原治兵衛と雪子(藤田幽谷の二女で藤田東湖の妹)の二女として水戸に生まれました。恵まれた家庭環境に生まれ育った冬(冬が両親がつけた名前)は、幼い頃から学問を好んで育ちます。18歳の時に彰考館総裁豊田天功の長男・豊田小太郎に嫁ぎます。慶応2年に夫が京都で暗殺され、22歳で未亡人となります。水戸の実家に戻った冬は名前を「冬」から「芙雄」に改め、亡き夫の遺志を継ごうと学問に励みました。
 東京女子師範学校(現お茶の水女子大学) の教員として改めて上京。翌年、附属幼稚園が開設されるとその保母となり、日本の保母第一号となりました。その後ヨーロッパに留学し女子教育を学びます。帰国後は、日本で二番目の鹿児島女子師範学校附属幼稚園(現鹿児島大学教育学部附属幼稚園)の創設、栃木県高等女学校(現栃木県立宇都宮女子高等学校)、茨城県立水戸高等女学校(現茨城県立水戸第二高等学校)の教師、水戸市大成女学校(現大成女子高等学校)の教諭・校長など教育者として活躍しました。
 また、水戸徳川家の徳川篤敬がイタリア特命全権公使として赴任する際に随行員に選ばれ、同時に文部省から「滞欧中女子教育事情取調べ」の命を受け約2年余り外国の文化や女子教育を学び、帰国後それをもとに女学校を開きました。
 昭和12年のヘレン・ケラーの茨城県来訪時には、水戸駅頭で出迎えたりもしています。
 「女が女の特性を発揮させ、良妻賢母になるために高等教育が必要」と説き、生涯にわたり教育者として道を切り開きました。

黒澤止幾:日本初の小学校女性教師
 黒澤止幾 (くろさわ・とき:1806〜1890年)は、高野村(現城里町錫高野)の修験者黒澤将吉の長女として生まれました。自宅では寺子屋も営み、幼少より祖父から教育を受けました。19歳で結婚。小島村(常陸太田市)に嫁ぎましたが、26歳の時に夫と死別。実家に戻り、草津方面へ日用品の行商に出かけたり、私塾の教師をするなど苦労しながらも学問を続けていました。
 安政5年、水戸藩主徳川斉昭が幕府から謹慎処分を受けます。大老井伊直弼による安政の大獄がはじまろうとしていた時期でした。止幾は「女性の自分には何の力も無い。しかし、国の安泰のために斉昭公の謹慎解除を朝廷に訴えよう」と京都に向かう決心をしました。安政6年、黒澤止幾54歳の時でした。京都に入った止幾は「よろつ代を照らす光のます鏡さやかにうつす賤が真心」の反歌を添えた孝明天皇への献上歌を公家に手渡すことに成功しました。しかし、大阪で幕府の役人に捕えられ、大阪や京都で厳しい尋問を受けました。江戸に送り返され、さらに苛酷な追及が続けられた。しかし、止幾は一貫して「自分自身のまごころからの行動である」と主張し続けました。登幾には「中追放」(江戸日本橋五里四方、常陸国への立ち入り禁止)のさたが下されました。そこで止幾は郷里にちかい茂木(栃木県茂木町)に仮住まいをすることにしました。
 その後、止幾は、ひそかに錫高野村に帰り、私塾を営んでいました。明治の世になり(明治5年)、当時の錫高野村の村長から小学校の教師をしてくれないかとの申し出でがありました。その申し出を止幾は快諾、自宅を小学校に代用して、正式に小学校の教師となりました。“日本で最初の小学校女性教師の誕生”です。その3ヶ月後に政府により「学制」が公布されたました。
 明治7年5月、小学校が新築されたのを節目に、止幾は教師を辞任することにしました。その後は、私塾の経営に当たり、明治天皇から毎年10石の米を受けることとなりました。止幾はその喜びを、「われあらぬ後も常磐の神垣に御代の千歳を祈れ家の子」との和歌に詠みました。