ハンセン病資料館
 7月11日、井手よしひろ県議は、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館と国立ハンセン病療養施設多磨全生園を視察しました。東村山市議会の伊藤真一議長、渡辺英子議員のご案内で、ハンセン病資料館の池内賢二事務局長、全国ハンセン病療養所入所者協議会・藤崎陸安事務長とも面談し、ご挨拶をさせていただきました。この「多磨全生園」には、今年4月1日、東京都の小池百合子知事が、公明党都議の案内で都知事として1959年9月以来、約60年ぶりに訪れ話題となりました。

 ハンセン病資料館は、ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消と患者・元患者の名誉回復を図るために設置されています。
 平成5年、ハンセン病患者・回復者が自らの生きた証を残し、2度とこうした深刻な人権侵害が繰り返されないよう訴えるため「高松宮記念ハンセン病資料館」が設置されました。その後、平成8年にらい予防法が廃止され、平成13年5月にはらい予防法違憲国家賠償訴訟(熊本地裁)で、公明党の坂口力厚労大臣のもと、国は控訴を断念。「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」が発表されました。その中に、「ハンセン病資料館の充実」が盛り込まれました。平成19年3月、2年余りの大掛かりなリニューアル工事を経て「国立ハンセン病資料館」として生まれ変わりました。平成21年施行された「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」の第18条に「国立のハンセン病資料館の設置」が明文化されました。
 ハンセン病は”らい菌”による慢性的な感染症です。感染しても発病するとは限らず、現在では発病自体が稀です。初期症状は、皮疹と知覚麻痺です。治療薬がなかった時代には変形を起こすことや、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われていました。現在は、有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療で後遺症もなく治るようになりました。
 ハンセン病は日本にも古くからあり、様々なかたちで差別が続いていました。1931年、「癩予防法」が制定されました。この法律の制定により、日本中のすべてのハンセン病患者が、療養所に隔離されるようになりました。この法律に前後して行われた「無らい県運動」により、ハンセン病をすべてなくそうという「強制隔離によるハンセン病絶滅政策」が広まりました。1953年、すでにハンセン病の治療薬が開発されたにもかかわらず、「らい予防法」が制定されました。「強制隔離」「懲戒検束権」などは、そのまま残りました。患者の働くことの禁止、療養所入所者の外出禁止などを規定したもので、この「らい予防法」が廃止されたのは1996年でした。

 こうした歴史の数々の証拠が、ハンセン病資料館には保管展示されています。その中でも、「重監房」の再現資料と収容された患者の性生活に関わる展示には、胸をえぐられる思いでした。
 「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物です。正式名称を「特別病室」といいました。「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための独房」として使用されていました。ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で「重監房」と言われています。
 重監房は昭和13年(1938年)に建てられ、昭和22年(1947年)まで使われていました。この9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていたのです。