康楽館
 8月28日午前中、小坂町の康楽館を訪問しました。小坂まちづくり株式会社の盒驚欷社長と面談し、小坂町のまちおこしの様々な取組を伺うとともに、映画「ある町の高い煙突」の上映会の開催をお願いしました。
 小坂町と日立市は、不思議な縁に結ばれたまちです。小坂の地が無ければ、現在の日立市は無かったといっても過言ではありません。あの日立製作所も無かったかもしれません。そして、その中心人物は久原房之助。映画「ある町の高い煙突」では、吉川晃司さんが好演しました。

日本三大銅山といわれ日本の産業の揺籃期を支えた小坂鉱山
 小坂鉱山は、大阪に本拠地を置いた「藤田組」の経営でした。現在のDOWAホールディングスや藤田観光の前身です。
 明治政府は富国強兵政策を進め、直轄で運営していた鉱山を、民間に払い下げるようになりました。小坂鉱山は、1884年(明治17年)、藤田組に任されることになりました。
 藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した企業。伝三郎の3兄弟によって経営されていました。小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出ており姓が異なっています)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛を極めます。
 しかし、銀鉱石の枯渇により急激に業績は悪化、ついに閉山に危機に直面します。その閉山処理のために派遣されたのが、庄三郎の子・久原房之助でした。当時、28歳であった久原房之助は、現地に常駐すると閉山業務ではなく、石見銀山から優秀な人材を技師長に迎え、地元小坂出身の有能な人材を重用して、銅の精錬法の開発に積極的にあたらせました。
 久原房之助は小坂鉱山に眠っていた黒鉱に着目。黒鉱は、方鉛鉱、セン亜鉛鉱、四面銅鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、重晶石、石英などからなり、緻密で塊状の黒色鉱石です。金・銀を伴うものもあります。黒鉱鉱床は特に東北地方の日本海側に分布しグリーンタフに伴って産出されます。金・銀・銅などを分離するのに多くの燃料を使うのため、コストがかさみ、当時は商業的に見捨てられていました。
 久原房之助は「鉱山を潰すつもりであれば、どんなことでもできる」と言い切り、新たな精錬法(自熔製錬法)の開発に着手しました。
 この努力が実を結び、明治35年(1902年)精錬所が完成し、稼働を開始しました。その前年には、「鉱毒濾過装置」も開発しました。久原房之助の卓越性は、公害防止装置を「あらかじめつくった」という点です。公害防止装置を、銅の精錬の一工程として考えていた証左です。
藤田組
 この結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山に飛躍しました。久原房之助率いる技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な上下水道や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、こういったありとあらゆることをすべて小坂という地域に実装しました。
 働く人びとの生活基盤として、住宅を整え、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくりるという計画を立て、実現に向け動き出す。まさに、この地にユートピアを実現しようとしました。

小坂銅山から日立銅山へ、久原房之助の独立
 久原房之助は、10年あまり小坂鉱山で過ごし、小坂鉱山に理想郷を作る覚悟を決めていました。しかし、明治37年に藤田組の本社から呼び戻され、不本意ながら小坂を去ることになります。藤田組の当主・藤田伝三郎は、久原房之助が小坂鉱山を私物化するのを恐れ、その才覚を妬んだともいわれています。
 藤田組を経営していたのは、藤田鹿太郎・久原庄三郎・藤田伝三郎の3兄弟でした。藤田組を創業したのは、末子の藤田伝三郎であり、藤田伝三郎が社長でした。そこで、藤田伝三郎は、自分が藤田家の宗家となり、藤田伝三郎の家系が藤田組を継承していくことを明記する家憲を定め、久原庄三郎と藤田鹿太郎の家系は副社長を世襲させようとしました。藤田鹿太郎は既に死去し、藤田小太郎が家督を継いでいましたが、藤田小太郎は病弱でおとなしい性格だったので、後見人の藤田伝三郎に任せていました。久原房之助の実父・久原庄三郎は明治38年3月に、房之助に家督を譲り隠居しました。久原房之助は、有能な者が会社を継ぐべきとして、藤田組の藤田伝三郎の家系による世襲制に反対し叔父・藤田伝三郎と対立。久原房之助と藤田小太郎は藤田組を離れることになりました。
 藤田伝三郎は、明治の元勲・井上馨らに財産分与の査定を依頼。井上馨らは、小坂鉱山を約2000万円と査定しました。そして、この2000万円を藤田伝三郎・武田恭作・久原房之助・藤田小太郎の4人で均等割にして、藤田伝三郎が10年分割で支払うことになりました。久原房之助は約500万円を受け取り、小坂を離れることになしました。

小坂まちづくり会社高橋社長と井手よしひろ 明治38年(1905年)、久原房之助は、日立市の赤沢銅山を買収。新たな鉱山経営をすべく、小坂を後にしました。
 日立鉱山が操業を開始して間もなく、その新たな鉱山の開発は断層(破砕帯)に突き当り、行き詰まります。当時の現場責任者は「心誠意十分に考慮の末、止めることを勧告する」とまで言い出し、結局、創業2年目で主な部下を引き連れて日立鉱山を去ってしまいます。日立鉱山は約50人ほど居た職員が30人足らずとなり、経営の危機を迎えます。
 久原房之助のピンチを救ったのは、小坂鉱山時代にともに銅山の経営に当たった小平浪平、角弥太郎など「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材でした。
 小坂勢の小平浪平は、工作課長として、日立鉱山の電力・機械・土木関係を一手に引き受けました。そして、電力の需要増大を見越して、石岡第一発電所を提案した。また、輸入に頼っていた機械の修理を手がける一方で、修理することによって原理や技術を学び、国産初の発電機の開発に成功しました。久原房之助は、小平浪平の熱意を認めて、機械製造業の進出を承諾。日立鉱山の利益の一部を裂いて、発足させたのが日立製作所です。日立製作所は久原鉱業所の子会社でしたが、大正9年(1920年)に久原鉱業所から完全に独立することになります。
 角弥太郎は、公害(煙害)対策の責任者として、地元の住民との交渉の矢面にたち、その姿は、住民代表の関右馬允とともに「ある町の高い煙突」の中に生き生きと描かれています。

鉱山従業員の憩いの場であった「康楽館」は今も健在
 秋田県小坂町にある芝居小屋「康楽館」は、香川県にある「金丸座」、兵庫県の「永楽館」と並ぶ、日本最古級の劇場のひとつです。
 鉱山の採掘によって「東洋一の鉱山」と呼ばれた秋田県小坂町。街は、採掘技術を教えるためにヨーロッパからはるばるやってきた外国人や、鉱山で職を得るために家族を伴って来た日本人など、国内外から来る人で賑わっていました。
 「康楽館」は、鉱山で働く従業員の福利厚生施設として建てられました。木造2階建、切妻造妻入りで、屋根は銅板葺(当初は杉板葺)。平面規模は正面約28.2メートル、奥行約38.2メートル。洋館風の外観を持つ一方、桟敷、花道、切穴などは、典型的な和風芝居小屋の様式で、和洋折衷の造りが特徴です。移築や復元を行わず、現在も利用されている木造芝居小屋としては日本最古の建物です。回り舞台の床下、いわゆる奈落では、4人の人力によって回す仕掛けが100年経った今でも現役で稼働しています。
 戦後に鉱山が閉山したことで、康楽館を訪れる人は減り、建物自体の老朽化も進んで、一時は解体の危機に陥りました。しかし、各方面から「遺すべき」という声があがり、小坂町の人々の努力と情熱の甲斐あって康楽館は存続することになりました。2011年に指定管理者制度を導入し、町の直営からまちづくり会社である「小坂まちづくり株式会社」の管理に移行しました。
 現在では主に大衆演劇の劇団によって、年間約200公演、1日あたり2〜3回の「常打芝居」が行われています。毎年7月に開催される「康楽館歌舞伎大芝居」は、近隣だけでなく全国からも来場者があり、大人気の恒例行事となっています。