危機の時代を生きる/長崎大学・山本太郎教授
 コロナ禍という未曽有の困難に見舞われた、この1年。危機の中から何を学び、いかに希望を育んでいくのか――。国際保健学、熱帯感染症学等を専門とする、長崎大学熱帯医学研究所の山本太郎教授のインタビュー記事を、聖教新聞2020年12月19日付け記事より転載します。(聞き手=聖教新聞・水呉裕一、萩本秀樹記者)

――長期化する新型コロナのパンデミック(世界的大流行)を、どのように捉えておられますか。また、今後の見通しについて教えてください。
 今回のコロナ禍には、医学的な感染症としてのパンデミックと、経済的・社会的に及ぼした影響という意味でのパンデミック、そして情報のパンデミックという、三つの複合的な側面があります。
 これらが並行して進んでいるにもかかわらず、どの側面について話しているかを明確に意識せず、区別してこなかったことにより、より大きな混乱が生じたと考えています。
 今後の見通しについて申し上げれば、まず収束とは、人口の一定数が免疫を持った時に迎えるものです。その一定数は、基本再生産数から考えて6割程度だといわれていますが、個人的にはもっと低くてもいいと思っています。3割の人口が免疫を持てば、収束へかなりの程度まで進むのではないでしょうか。

“マラソン”を走る覚悟と辛抱が必要
 収束までの道程をフルマラソンに例えれば、現在は「10キロ地点」付近を走っているといえます。
 子どもは感染率が低く、重症化しにくいなど、ウイルスの特徴が少しずつ分かってきたことは大きな前進です。また、ワクチンの開発も進んでいます。
 一方で、流行の地域差の原因など、分からないことはまだ多くあります。冬本番を迎えるに当たり、未体験のゾーンばかりです。インフルエンザの流行が起こった場合などを考えると、折り返し地点には至っていないといえるでしょう。
 これらを実際に経験していく中でしか、今回のパンデミックの全容については分からないと考えています。
 このマラソンは、100メートルを一生懸命に走るような短距離走ではありません。1年、2年という長い時間を要するという覚悟を持って、長距離走の走り方をしていくことが重要だと思います。
 収束までの道程を“ウイルスとの戦争”と捉え、感染するかしないかが善悪の基準であるような見方をすると、社会全体が息苦しくなってしまいます。流行が落ち着き、風邪のように社会に定常化するまでは、辛抱が必要なのです。
――(山本教授は)感染症と人類の関係を、文明の発祥にさかのぼって考察されています。
長崎大学・山本太郎教授の著書 メソポタミア、中国、そしてインド亜大陸と、各地で起こった文明と風土、感染症と社会を俯瞰すると、「感染症と文明」を巡る四つの基本構造があることに気付きます。
 第一は、文明が人口増加を通して、はしかや天然痘、百日咳などが流行する土壌となることで、「感染症のゆりかご」として機能したということです。
 第二に、文明の中で育まれた感染症は、生物学的障壁となって、その文明を保護する役割を担いました。感染症への免疫を持たない集団が侵略してきた際、攻めてきた側は、ばたばたと倒れていったのです。感染症が社会を守る“盾”となったということです。
 第三は、文明が、勢力を拡大しながら周辺の感染症を取り込み、免疫を獲得して、自らの疾病のレパートリーを増大させてきた点です。これにより感染症は、文明を防御する側面を持つと同時に、文明の拡大を支援する強力な武器にもなったのです。
 そして第四に、疾病の存在が社会のあり方に影響を与えたことが挙げられます。今回の新型コロナウイルスに当てはめれば、感染拡大が、デジタル化や情報社会へのさらなる移行を促したことにも通じるでしょう。
 このように、感染症と人類の関係は、決して単純ではありません。にもかかわらず、ウイルス研究が病原体の研究として始まったために、「ウイルス=悪いもの」と考えられがちなのです。
 実際は、病気の原因となっているウイルスは全体の0.01%に過ぎず、大半は人類にとって良い働きをしているのだということを、私たちは理解しておく必要があります。

ウイルスの目線
――そうした歴史から、私たちが教訓とすべきことは。
 まず申し上げておきたいのは、パンデミックは必ず終わるということです。長い時間はかかりますが、必ず終わるという認識を持つことは大切です。
 その上で、私たちはウイルスを、感染症を起こす病原体として、感染される側の宿主の目線からしか見てきませんでした。今後は、“ウイルスの目線”から見ることが必要ではないでしょうか。
 どういうことかというと、ウイルスにとって、宿主である人間がいなくなれば、自分たちも生きていけないわけです。つまり、感染によって宿主の生命を奪うことは、ウイルスにとっても不利益なのです。そう考えると、ウイルスが宿主を“敵”と考えることは、長い目で見るとありえません。
 ではもし、ウイルスが人間に何かしらの悪さをするのであれば、それは離れて生息していた野生動物が人間の社会に入り、これまでその動物を宿主としていたウイルスが、新たな宿主としての人間と、上手に付き合えていないからだと考えることができます。
 そうであれば、ウイルスが時間をかけて、できるだけ穏やかに変異しながら、重い病気を起こさないよう弱毒化することは、お互いにとってメリットがあります。そのためにどうするかを、考えていくことが賢明であると思います。
 反対に、抗生物質でせん滅しようとしたり、過度な攻撃をしたりすると、ウイルスはどんどん変異して強毒化することが分かっています。いわば、素手同士で戦っている状態から、どちらかが棒を持つと、もう一方も棒を持つようなものです。それがエスカレートすると、刀や銃へと変わっていくのです。
 そう考えると、私たちが取るべき対策はおのずと見えてきます。人間も自然の一部なのですから、“一人勝ち”するということは考えられません。
 心地よいものではありませんが、「共生」の道を探っていくべきでしょう。

――共生を模索する上で、心掛けるべきことは。
 多くの人が共生を難しいと感じてしまうのは、「個」と「集団」の利益が、相反するからだと思います。
 感染によって亡くなる人は多くいます。共生といっても、個々の遺族にとっては、とても許容できるものではありません。
 一方で、ウイルスをせん滅させると、誰も免疫を持っていない状況が生まれ、万が一、そのウイルスが再び人の社会に入ってきた時には、もっとひどい影響を与えることになります。そう考えると、せん滅するよりも、共生していくこと自体の利点もあるのです。
 このように、「個」の利益と「集団」の利益が相反する事象を、どのように整理していくかは、いまだに答えがありません。
 ウイルスを研究している公衆衛生の立場からは、共生ということがいえますが、現場の医療関係者にとっては、目の前の患者を救うことが第一です。
 共生という言葉は美しく聞こえるかもしれませんが、決して簡単なものではないのです。その事実を認識し、長い時間をかけて、それぞれの場面に応じて柔軟に捉えていく必要があると思います。

思いやりの精神
――“一人勝ちはできない”という意味では、個人にあっても、自分だけの心地よさを追い求める生き方から、他者にも配慮する生き方への転換が求められています。
 その通りだと思います。人間の行き過ぎた環境開発や、二酸化炭素の排出、資源の無駄遣いなどを見直すことも、具体的な行動ですね。SDGs(持続可能な開発目標)の達成を含めて、次の時代に託す地球のあり方を、考えていかなければなりません。
 歴史上、人間が文明を生み出した背景には、他者に対する思いやりや、他者を理解しようとする努力があったと考えられます。文明を築くということは、一つの社会協力体制をつくるということです。そうした協働作業は、他人に対する理解や共感がなくては成功し得ません。相手を思いやるといった精神がなければ、おそらく今のような文明は、つくられていないのではないかと思うのです。
 今、「新しい生活様式」という考え方が定着し、一定以上の身体的距離を取ることが当たり前になりました。しかし、これは決して、未来にわたって取るべき行動ではないと考えます。
 なぜかというと、人間は言葉をしゃべる前から、共に歌ったり、踊ったりしながら共鳴し、コミュニケーションをとってきた生き物だからです。それが、人間が人間たるゆえんであると私は思います。
 新しい社会を築く上で、身体的距離や社会的距離だけではなく、“心の距離”をどう測っていくかを、真剣に考えなければなりません。これまでとは違う一つ上のステージで、人間関係を見つめ、「新しい共感」のあり方を模索していくべきです。  そうした社会のあり方は、「しなやかで柔軟な社会」と表現できると思います。閉鎖的、分断的に感染症に向き合うのではなく、一体となって取り組む社会です。
 歴史上、たとえウイルスに強靱な社会をつくっても、また新たなウイルスが、その社会の弱点をつく形で現れてきました。そんな時、市民が互いにエンパワーメント(内発的な力の開花)し、高め合えるような民主的な社会の方が、感染症に対しては強かったのです。

一人ではなく皆で乗り越える。希望を育み合える社会の構築を
――世界の各地で研究に従事してこられた経験を通して、「希望」を持つことの大切さを訴えておられます。
 20年以上前に、エイズ対策を目的としてアフリカに滞在しました。現在のような治療薬はなく、私たちにできる唯一の対策は、予防でした。毎日、村から村へと回り、感染症予防の重要性を説くのですが、それがなかなかうまくいきません。
 そんなある時、一人の青年が言いました。「10年後に生きている保証はないじゃないか。エイズじゃなくても飢餓や暴力、戦争で死んでいる。今、予防をする意味を感じられない」と。
 対策がうまくいかなかったのは、感染症に対する現地の人々の理解が足りなかったわけでも、私たちの説明が悪かったわけでもなく、彼らが、10年後の自分の未来を想像できなかったからなのです。
 未来に希望を持てなければ、感染症に立ち向かうことはできないと、思い知らされました。
 希望を抱くことが、医学的また心理的にどう影響するかは、私の専門外ですが、個人としては、人の行動にポジティブな効果をもたらすと思っています。人間は未来が見えない中で走り続けていくことが、一番苦しいからです。
 その意味で、「パンデミックは必ず終わる」という認識は、一つの希望になると考えます。長期化するコロナ禍に対して心が折れないためにも、希望を持てる社会を築くことが必要ではないでしょうか。
 宗教は本来、絶望や悲しみを和らげるためのものであったと理解しています。そうした希望を阻むような要因を取り除くことで、ある意味では、希望の源泉になってきました。
 そして希望を育むために必要な励ましや支えを、常日頃から送り合っているのが、宗教コミュニティーであるといえます。
 今の近代的な社会では、コミュニティーの力が弱まってきている側面があります。
 だからこそ、一人では難しいことも、皆で協力して乗り越えるといった社会を構築することが、ますます大切であると思います。

<山本太郎教授のプロフィル>やまもと・たろう
医師、博士(医学、国際保健学)。1964年生まれ。長崎大学医学部卒業。京都大学大学院医学研究科助教授、外務省国際協力局勤務などを経て、長崎大学熱帯医学研究所教授。専門は国際保健学、熱帯感染症学、感染症対策。アフリカ、ハイチなどで感染症対策に従事。著書に『感染症と文明』(岩波新書)、『疫病と人類』(朝日新書)など。