
9月30日、東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で発生した臨界事故から20年を迎えました。現場作業員2人の命を奪い、住民ら660人以上が被ばくした、わが国の原子力開発史上唯一人命が失われた最悪の事故です。多くの住民らは目に見えない原子力災害の恐怖に襲われました。
あれから20年がたち、事故は風化していないか。あらためて「原子力事故は起き得る」との教訓を再確認したいと思います。
事故が発生したのは、1999年9月30日午前10時35分。JCO転換試験棟でウラン溶液の混合作業中に、正規の手順にはない沈殿槽に規定の7倍を超える溶液を投入したため、核分裂反応が連続する「臨界」状態となり、中性子線が放出されました。作業をしていた3人の作業員が大量の放射線を浴び、このうち、最大20シーベルトの被ばくをした作業員は12月に亡くなり、最大10シーベルトの被ばくをしたもう1人の作業員は翌年の4月に亡くなりました。
この事故で、現場から半径350メートル圏内の住民に避難要請が行われました。国際原子力事象評価尺度による評価レベルは4です( 福島第1原発事故はレベル7です)。
県は半径10キロ圏内の住民に屋内退避勧告を出し、約31万人が家の中で事故の終息を待つ事態となりました。周辺の学校や工場、コンビニなどが一斉に臨時休業となり、JR常磐線など交通機関もストップするなど、現場周辺の異様な雰囲気が思い出されます。
私は当日昼過ぎ、地元の東海村公明党議員からの一報で、現場に向かいました。まだ、臨界事故という情報も何も伝えられておらず、JCOの国道6号側は、警察の規制線が張られていましたが、裏側の村道には自由に侵入できました。臨界が起きた現場からは数百メートルしか離れていません。後から常用を聞かされ、悪寒が走りました。
夕刻には、被曝が懸念される地域住民が、集められ線量検査が行われていた地域コミュニティセンターを視察して回りました。
その日の夜には、公明党の国会議員も次々に訪れ、翌10月1日には、原子力関係者からの直接の聴き取りや当時の村上村長かとの意見交換を精力的に行いました。
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