新日鉱ホールディング株式会社代表取締役・清水康行氏が講演
 10月3日、第13回世界地方都市十字路会議の一環として、日立の産業生誕100年記念講演会「日立で生まれ、世界にはばたく新日鉱グループ」と題した講演会が開催されました。新日鉱ホールディング株式会社代表取締役・清水康行氏が、日立市の発展の基礎を築いた「日本鉱業」の創業から、世界に広がる新日鉱グループの現状までを語りました。


 また、清水社長は講演会に続き行われた日鉱記念館のリニュアル記念式典で、小中学生の環境教育に役立ててほしいと、日立市に来春、1億円を寄付することを明らかにしました。
 1905年(明治38年)12月、創業者・久原房之助は赤沢鉱山を買収し、日立鉱山として開業しました。これが新日鉱グループの創業であり、日立の産業が産声を上げた瞬間でした。日立鉱山は、開業まもなく日本を代表する大銅山へと躍進しました。
 そして、この日立鉱山の工作課長を務め、後に独立したのが小平浪平であり、その小平が起こした企業が日立製作所です。
 日立鉱山の歴史は、公害との戦いの歴史でもありました。当時の技術では、銅の精錬で発生する亜硫酸ガスを排煙から回収することは出来ませんでした。そのため、日立鉱山から排出された煙は、周囲の農作物や樹木に深刻な影響を与えました。日立鉱山は住民との真摯な交渉を繰り返し、公害対策に多大な努力をそそぎました。その対策として建設されたのが世界一の高さ(155.7m)を誇った大煙突です。大煙突が完成したのは1914年(大正3年)12月。当時の日立鉱山の売上の2割を占める30万円の巨費を投入し、延べ3万7000人の作業員を投入してわずか9ヶ月で完成させました。大煙突によって、煙害は大幅に軽減されました。この煙害との戦いは、新田次郎の「ある町の高い煙突」のモチーフとなったことは有名です。
 更に、日立鉱山は煙害で失われた緑を取り戻すために、大正3年から昭和4年までに1000万本を超す桜の木などを植林したり、苗木を無償で配布しました。日立市が桜の街として有名になったのも、この時期に植林された大島桜が起源となっています。
 日立鉱山は、昭和に入り日本産業コンツェルンの中核企業として、戦後は石油製品を中核とするエネルギー産業に参入して現在の「新日本鉱業グループ」に至っています。
 清水社長は結びとして、日本鉱業100周年の記念として日鉱記念館をリニュアルし、企業と地域社会の共存共栄の歴史を後世に伝えていくことや、日立市の環境保全や市民のやすらぎの場作りへ新たな支援を行うことを宣言しました。
(写真上:日立の産業生誕100年記念講演会を行う新日鉱ホールディング株式会社代表取締役・清水康行氏、写真下:大煙突の下操業する日立鉱山)
参考:新日鉱ホールディングのHP
参考:日鉱記念館のHP