6月22日、公明党は党中央幹事会を開催し、今年12月に予定されている茨城県議会一般選挙にあたり、つくば市選挙区に田村けい子さんを擁立することを決定しました。先に公認が決定している井手よしひろ県議を含む3候補と共に、県議会で代表質問権を確保する4議席獲得に挑戦することになりました。
今回、新人候補の擁立が決定したつくば市選挙区は、定数の見直しにより1名増の4議席の新定数で争われます。現職3名を含む、各党の候補者8名の立候補が見込まれる大激戦区です。
22日夜、つくば市内で臨時党支部会が開催されました。石井啓一県代表(衆議院議員)より、田村候補の擁立が発表されると、会場は大きな拍手に包まれました。
あいさつに立った田村けい子さんは、「女性の視点から、茨城県と地元つくば市の発展と福祉の向上のため全力を尽くしていきたいと思います。特に、子育て支援や文化・教育の振興に力を入れてまいります。皆さまのご支援をよろしくお願いいたします」と決意を熱く語りました。
参考:田村けい子のつくば元気情報局(公式ホームページ)
今回、新人候補の擁立が決定したつくば市選挙区は、定数の見直しにより1名増の4議席の新定数で争われます。現職3名を含む、各党の候補者8名の立候補が見込まれる大激戦区です。
22日夜、つくば市内で臨時党支部会が開催されました。石井啓一県代表(衆議院議員)より、田村候補の擁立が発表されると、会場は大きな拍手に包まれました。
あいさつに立った田村けい子さんは、「女性の視点から、茨城県と地元つくば市の発展と福祉の向上のため全力を尽くしていきたいと思います。特に、子育て支援や文化・教育の振興に力を入れてまいります。皆さまのご支援をよろしくお願いいたします」と決意を熱く語りました。
参考:田村けい子のつくば元気情報局(公式ホームページ)
田村けい子さんの抱負
(2006/6/22党つくば支部臨時支部会でのあいさつ)
(2006/6/22党つくば支部臨時支部会でのあいさつ)
このたび、公明党の公認を頂き、県会選に挑戦させていただくことになりました田村けい子と申します。
微力ではありますが、つくばの発展と住民の皆さまの福祉向上のため、死にものぐるいで戦ってまいりますので、よろしくお願いいたします。
私は、昭和29年長崎で生まれました。母は20歳のとき、爆心地から3キロ以内で被爆。幸い建物の中にいたので九死に一生を得ましたが、白血球が減少したり、骨に異常が出たり、後遺症に苦しみました。私は母の姿や原爆記念館の展示に触れながら、「絶対に二度と戦争をおこしてはいけない。長崎の悲劇を伝えていくことこそ私の使命」と考えるようになりました。被爆二世の私にとって、いつ原爆症が発症するかもしれない不安を抱えながら成長しました。
大学は神戸市外国語大学でスペイン語を専攻、神戸で青春時代を過ごしました。
はじめて選挙権を得た統一選では、公明党候補の遊説隊メンバーとして戦わせていただき、以来「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との立党精神が大好きになりました。「負けたらあかん」「負けたらみじめや」「負けて泣くより泣いて勝とう」と勝利に対する執念も、関西の地で学ばせていただきました。
大学卒業後、女性の感性を活かせる仕事をと、ファッション関係の商社に就職。マーケティング戦力に育てたいとの会社の思いを受けて、大卒女子社員第一期生として市場調査、商品企画、販売促進などマーケティングの基礎を学びました。数字に弱い欠点をカバーしたいと自ら志願して営業に歩き、予算達成の苦労と喜びも知りました。その後、流通業、ファッションメーカー勤務を経て、昭和61年にフリーのマーケティングプランナーとして独立を果たし、調査、企画、研修などを手がけてまいりました。ファッションや流通系の専門学校4校で非常勤講師として教育にも携わり、講演会の講師として声がかかるまでになりました。
平成5年、夫の転勤でつくばへ参りました。これまでに蓄積してきた仕事を失うことになりましたが、子育てをしながら、乳幼児期の教育が心を育てる上でいかに大切かを知り、子育て中の母親のネットワーク構築に力を注ぎました。外資系企業でパート勤務をしながら、家庭教育のありかたを学び、平成17年にはつくば市教育委員会に社会教育指導員として採用されました。幼稚園、小中学校の家庭教育学級の運営を中心に、高齢者学級の企画運営、公民館講座の立案、ボランティアの育成など地域の中で取り組んでまいりました。
自らの子育てや社会教育指導員としての仕事を通して、公明党の主張する「少子社会トータルプラン」や「食育基本法」の必要性をひしひしと実感しています。また、子育て支援、地域教育力再生など、つくばの中で進めなければならない課題が山積しています。
私は、つくばエクスプレスが開通し無限の可能性を秘めたつくばが、歴史と伝統・そして豊かな自然に恵まれたつくばが、大好きです。誰もが安全に、安心して快適に暮らせるまちづくりをめざしがんばってまいります。
被爆二世として長崎の心、平和を願う心を伝えつつ、人間が人間らしく平和に幸せに生きる権利を守る、人間主義の政治の実現のため、一人の声を大切に、全力で走りぬいてまいります。
知名度もなく、実績もない私です。どれほどご苦労をおかけすることか、申し訳なく思いますが、12月に予定されております県議選に大勝利させていただきたく、ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
微力ではありますが、つくばの発展と住民の皆さまの福祉向上のため、死にものぐるいで戦ってまいりますので、よろしくお願いいたします。
私は、昭和29年長崎で生まれました。母は20歳のとき、爆心地から3キロ以内で被爆。幸い建物の中にいたので九死に一生を得ましたが、白血球が減少したり、骨に異常が出たり、後遺症に苦しみました。私は母の姿や原爆記念館の展示に触れながら、「絶対に二度と戦争をおこしてはいけない。長崎の悲劇を伝えていくことこそ私の使命」と考えるようになりました。被爆二世の私にとって、いつ原爆症が発症するかもしれない不安を抱えながら成長しました。
大学は神戸市外国語大学でスペイン語を専攻、神戸で青春時代を過ごしました。
はじめて選挙権を得た統一選では、公明党候補の遊説隊メンバーとして戦わせていただき、以来「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との立党精神が大好きになりました。「負けたらあかん」「負けたらみじめや」「負けて泣くより泣いて勝とう」と勝利に対する執念も、関西の地で学ばせていただきました。
大学卒業後、女性の感性を活かせる仕事をと、ファッション関係の商社に就職。マーケティング戦力に育てたいとの会社の思いを受けて、大卒女子社員第一期生として市場調査、商品企画、販売促進などマーケティングの基礎を学びました。数字に弱い欠点をカバーしたいと自ら志願して営業に歩き、予算達成の苦労と喜びも知りました。その後、流通業、ファッションメーカー勤務を経て、昭和61年にフリーのマーケティングプランナーとして独立を果たし、調査、企画、研修などを手がけてまいりました。ファッションや流通系の専門学校4校で非常勤講師として教育にも携わり、講演会の講師として声がかかるまでになりました。
平成5年、夫の転勤でつくばへ参りました。これまでに蓄積してきた仕事を失うことになりましたが、子育てをしながら、乳幼児期の教育が心を育てる上でいかに大切かを知り、子育て中の母親のネットワーク構築に力を注ぎました。外資系企業でパート勤務をしながら、家庭教育のありかたを学び、平成17年にはつくば市教育委員会に社会教育指導員として採用されました。幼稚園、小中学校の家庭教育学級の運営を中心に、高齢者学級の企画運営、公民館講座の立案、ボランティアの育成など地域の中で取り組んでまいりました。
自らの子育てや社会教育指導員としての仕事を通して、公明党の主張する「少子社会トータルプラン」や「食育基本法」の必要性をひしひしと実感しています。また、子育て支援、地域教育力再生など、つくばの中で進めなければならない課題が山積しています。
私は、つくばエクスプレスが開通し無限の可能性を秘めたつくばが、歴史と伝統・そして豊かな自然に恵まれたつくばが、大好きです。誰もが安全に、安心して快適に暮らせるまちづくりをめざしがんばってまいります。
被爆二世として長崎の心、平和を願う心を伝えつつ、人間が人間らしく平和に幸せに生きる権利を守る、人間主義の政治の実現のため、一人の声を大切に、全力で走りぬいてまいります。
知名度もなく、実績もない私です。どれほどご苦労をおかけすることか、申し訳なく思いますが、12月に予定されております県議選に大勝利させていただきたく、ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。