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 日立市の9月議会には、日立武道館の改修費用が補正予算として計上されました。この日立武道館は、1917(大正6)年に日立鉱山労働者の娯楽施設として建てられた「共楽館」がその前身。
 大型木造建物のため老朽化が進み、雨漏りや天井、屋根などの痛みが激しくなっていました。また、耐震補強の必要性が指摘され2年前からは、武道館としても使われていませんでした。
 9月議会には、改修に必要な約3億9400万円が補正予算案として提出され、今月末に可決される見込みとなりました。
 国の登録有形文化財に指定されている共楽館は、床面積約1100平方メートル。往時は約1千人を収容し、「帝劇を除いては全国一」と評されるほどで歌舞伎や相撲の地方巡業などに利用されていました。1967年に日立鉱山から寄贈された市は、舞台や客席を取り払い、武道館に改修して使用していました。東京の歌舞伎座を模したという外観は、そのまま原形が保たれています。
 建築から90年以上を経て老朽化が著しく、雨漏りや基礎部分の腐食が進んできました。市の耐震診断で問題があると判定され、06年4月に一般の使用が中止されました。地元のNPO「共楽館を考える集い」は保存運動を展開し、5月には風水害による腐食損壊の緊急修理を市に要望したが、市は多額の費用が必要なため、改修に踏み切れずにいました。
 今回、日立市は国の緊急経済対策である地域活性化・経済危機対策臨時交付金約2億4200万円と特例債約1億5200万円を活用し、武道館の改修費用を捻出しました。
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 9月16日、現状を視察した井手よしひろ県議は、日立市教育委員会の中山俊恵教育部長らから、施設の現状と今後の改修計画について、詳細に説明を受けました。中山教育部長「早ければ年内に工事着手、できれば来年いっぱいで必要な改修を終えたい」と語っていました。
日立の産業遺産『共楽館』
共楽館は日立市の文化のゆりかご
日立鉱山はかつて日本有数の銅山として日立市発展の礎を築き
鉱山の従業員とその家族の福利厚生施設として共楽館は生まれた
大正6年に澤村源之助、市用九団次を招いての舞台開き
二つの唐破風を正面に備えた歌舞伎座風の芝居小屋
総坪数六四七坪、間口十六間、奥行き二十二間の大建造物
構造はキングポスト・トラスト工法
天井を見上げると一間四方の格天井
大歌舞伎用の八間の舞台、四千人も収容したという客席
設計・施行は日立鉱山の従業員があたったという
共楽館は単なる芝居小屋ではない
館内に土俵を築いて横綱常ノ花一行の相撲興行
山神祭では中央に噴水、時には展示会場にもなる
NHKしろうとのど自慢、吉田正作曲日立音頭発表会場
日立市や日立鉱山の文化祭の会場にもなっている
十五世市村羽左右街門や六代目尾上菊五郎も来演している
太平洋戦争で共楽館の屋根に二本の焼夷弾が刺さった
奇跡的に消失を免れた共楽館
戦後の日本の文化を支えた共楽館
映画の黄金時代を共楽館で育った時代
素人演芸大会から学芸会まで共楽館は懐が深い
いま共楽館は回り舞台や花道もないが
芝居小屋としての立派な器が健在だ
そして平成十一年、茨城県で六番目、国の有形文化財に登録された
(日立武道館に掲げられている説明文より)

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1917年(大正6年)当時。完成して間もない共楽館の姿。内部は二階、回り舞台や揚げ板のある大芝居用のものである。収容人員は公称980名だったが、人気俳優や歌手の出演のあるとき、NHKのど自慢大会などの人気の催事の時にはその3倍を収容したという。当初は、毎月3日ないし5日演劇・歌舞伎・音曲を興行し、そのほかに従業員の修養のため名士の公演などが開催された。(日鉱記念館展示パネルの説明より)


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共楽館の内部、1929年(昭和4年)当時。明治会日立支部の発表会の写真。観客席はいっぱいに埋まり、立ち見の人もいる。この当時は、行事の後にあるアトラクションが楽しみで人々が集まったものだともいう。市民会館のような大きな収容能力をもつ施設がなかった時代なので、共楽館が代わりに使われたのである。(日鉱記念館展示パネルの説明より)