鉱山からタレ流された廃水が原因で、「痛い、痛い」と苦しみながら亡くなっていく多くの人々。富山県神通川沿岸の風土病と言われた『イタイイタイ病』。その救済のためには、大企業や行政の厚い壁に立ち向かった地元の医師や研究者のひたむきな戦いがありました。地元の志ある人々の懸命な活動もありました。
そして、政治の分野での公明党の戦いも、歴史に残るものした。イタイイタイ病救済と公明党参議院の闘いを、公明新聞2010年6月10日付けの記事から紹介します。
大企業と行政の壁に阻まれ社会の片隅に追われた患者たちを救った公明党
「厚生省(現厚生労働省)が『イタイイタイ病は公害』と断定しました」。1968年(昭和43年)5月8日、そのニュースは全国を駆けめぐりました。
富山県婦中町(現富山市)の萩野病院。待合室のテレビ前には、イタイイタイ病の患者らが集まっていました。ニュースが放送された瞬間、「わあっ!」と歓声。「今、ようやく光が差してきた感じですちゃ」。患者の中心的存在だった小松みよ(故人)さんは、そう言って安堵の表情を浮かべました。「ここまでこられたのも、公明党が国会で取り上げてくれたおかげですちゃ」……
イタイイタイ病は大正以来、富山県の神通川流域で多発した病気で、骨が脆くなり、悪化すれば、せきをしただけで骨折しました。“風土病”“業病”と言われるなど偏見も強く、「痛い、痛い」と布団の中で嘆くしかない患者は、社会の片隅に置き去りにされていました。
原因は、上流の神岡鉱山がタレ流す廃水に含まれたカドミウムでした。だが、それを告発した地元医師・萩野昇(故人)氏は、「あんな医者の言うことを信じたら、地元に嫁の来てがなくなる、米も売れなくなる」との批判を浴び、病院からは患者が去っていくばかりでした。大企業側が画策した陰湿な圧力でした。
1967年(昭和42年)5月25日、萩野のもとを公明党参院議員の矢追秀彦(故人)が訪ねました。萩野がスライドで患者の悲痛な症状を説明すると、矢追の目に涙が。「こんな悲惨なことがあるか!これは公害だ。これを追及するのが私たち政治家の責任だ」と心に決めました。
翌26日、矢追は参院産業公害交通対策特別委員会で質問。初めてイタイイタイ病を取り上げ、政府の無為無策を追及したが、政府は「原因が分からない」の一点張りでした。
しかし、矢追らは一歩も退かなかった。公明党は本格調査を始めました。現地に何度も足を運び、患者の話を一人一人聞いて回りました。その必死の姿に、地元の人々も次第に心を動かされていきました。年末の12月6日には、小松ら患者代表3人が公明党の仲介で上京し、矢追と一緒に政府に救済対策を直訴するまでになっていました。
そして翌1968年5月8日、厚生省は委託研究班(班長=重松逸造・国立公衆衛生院疫学部長<当時>)の「(原因は)鉱業所の諸施設からの排出が主体」との最終結論をもとに、ついにイタイイタイ病を公害病と認定したのでした。
その後、9月には水俣病を公害病認定。1972年(昭和47年)には、神岡鉱山側を訴えた裁判でイタイイタイ病患者らが全面勝訴しました。
作家の有吉佐和子(故人)さんが環境問題を扱ったベストセラー長編小説『複合汚染』が1975年(昭和50年)に出版されました。同書には、こう記されています。「公害に最も大きい関心を寄せ、熱心に勉強し、実績をあげている政党は、どの革新政党よりも公明党だと、住民運動をしている人たちは口を揃えて言う」と……
そして、政治の分野での公明党の戦いも、歴史に残るものした。イタイイタイ病救済と公明党参議院の闘いを、公明新聞2010年6月10日付けの記事から紹介します。
大企業と行政の壁に阻まれ社会の片隅に追われた患者たちを救った公明党
「厚生省(現厚生労働省)が『イタイイタイ病は公害』と断定しました」。1968年(昭和43年)5月8日、そのニュースは全国を駆けめぐりました。
富山県婦中町(現富山市)の萩野病院。待合室のテレビ前には、イタイイタイ病の患者らが集まっていました。ニュースが放送された瞬間、「わあっ!」と歓声。「今、ようやく光が差してきた感じですちゃ」。患者の中心的存在だった小松みよ(故人)さんは、そう言って安堵の表情を浮かべました。「ここまでこられたのも、公明党が国会で取り上げてくれたおかげですちゃ」……
イタイイタイ病は大正以来、富山県の神通川流域で多発した病気で、骨が脆くなり、悪化すれば、せきをしただけで骨折しました。“風土病”“業病”と言われるなど偏見も強く、「痛い、痛い」と布団の中で嘆くしかない患者は、社会の片隅に置き去りにされていました。
原因は、上流の神岡鉱山がタレ流す廃水に含まれたカドミウムでした。だが、それを告発した地元医師・萩野昇(故人)氏は、「あんな医者の言うことを信じたら、地元に嫁の来てがなくなる、米も売れなくなる」との批判を浴び、病院からは患者が去っていくばかりでした。大企業側が画策した陰湿な圧力でした。
1967年(昭和42年)5月25日、萩野のもとを公明党参院議員の矢追秀彦(故人)が訪ねました。萩野がスライドで患者の悲痛な症状を説明すると、矢追の目に涙が。「こんな悲惨なことがあるか!これは公害だ。これを追及するのが私たち政治家の責任だ」と心に決めました。
翌26日、矢追は参院産業公害交通対策特別委員会で質問。初めてイタイイタイ病を取り上げ、政府の無為無策を追及したが、政府は「原因が分からない」の一点張りでした。
しかし、矢追らは一歩も退かなかった。公明党は本格調査を始めました。現地に何度も足を運び、患者の話を一人一人聞いて回りました。その必死の姿に、地元の人々も次第に心を動かされていきました。年末の12月6日には、小松ら患者代表3人が公明党の仲介で上京し、矢追と一緒に政府に救済対策を直訴するまでになっていました。
そして翌1968年5月8日、厚生省は委託研究班(班長=重松逸造・国立公衆衛生院疫学部長<当時>)の「(原因は)鉱業所の諸施設からの排出が主体」との最終結論をもとに、ついにイタイイタイ病を公害病と認定したのでした。
その後、9月には水俣病を公害病認定。1972年(昭和47年)には、神岡鉱山側を訴えた裁判でイタイイタイ病患者らが全面勝訴しました。
作家の有吉佐和子(故人)さんが環境問題を扱ったベストセラー長編小説『複合汚染』が1975年(昭和50年)に出版されました。同書には、こう記されています。「公害に最も大きい関心を寄せ、熱心に勉強し、実績をあげている政党は、どの革新政党よりも公明党だと、住民運動をしている人たちは口を揃えて言う」と……
証言:認定が全面勝訴を後押し、命と環境を大事にする党は公明党
◆裁判を闘った高木良信・イタイイタイ病対策協議会副会長
私たち患者、遺族らは1968年3月、原因企業の提訴に踏み切りました。それは「その企業は100人を超える国会議員に影響力を持っている」とうわさされる中、裁判に負ければ、土地を追われることも覚悟しての決断でした。
そんな私たちの取り組みに対し、公明党の故・矢追議員の国会質問がきっかけとなり、全国的な支援が広がり、提訴2カ月後の5月8日に「公害病」と認定されました。強大な企業との裁判闘争のさなか、国が認定したという事実が一番の力になり、全面勝訴への大きな後押しになりました。
◆厚生省委託研究班の班長だった重松逸造・放射線影響研究所名誉顧問
より早く運動が広がっていた水俣病などよりも先に、イタイイタイ病が「公害病」に認定されたのは、公明党の尽力にほかなりません。
現地に入って原因究明に当たる中、私自身も公明党議員が現場に深く入り込んで調査活動を行っていたことをよく耳にしました。私たち研究班は当時、そのことを心強く思っていたことを今も覚えています。
◆神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会の高木勲寛代表
当時はイタイイタイ病の「公害病」認定に、また最近では2012年春に整備予定の県立イタイイタイ病資料館の設置構想に対し、公明党には、私たち被害者の側に立って支え続けていただきました。
この中で私は、公明党が一貫して「命と環境を大事にする」という主義主張を貫いていることに感銘を受けた次第です。
参考:イタイイタイ病(金沢医科大学公衆衛生学教室)
参考:平成医新「萩野昇:富山のシュヴァイツァー」
◆裁判を闘った高木良信・イタイイタイ病対策協議会副会長
私たち患者、遺族らは1968年3月、原因企業の提訴に踏み切りました。それは「その企業は100人を超える国会議員に影響力を持っている」とうわさされる中、裁判に負ければ、土地を追われることも覚悟しての決断でした。
そんな私たちの取り組みに対し、公明党の故・矢追議員の国会質問がきっかけとなり、全国的な支援が広がり、提訴2カ月後の5月8日に「公害病」と認定されました。強大な企業との裁判闘争のさなか、国が認定したという事実が一番の力になり、全面勝訴への大きな後押しになりました。
◆厚生省委託研究班の班長だった重松逸造・放射線影響研究所名誉顧問
より早く運動が広がっていた水俣病などよりも先に、イタイイタイ病が「公害病」に認定されたのは、公明党の尽力にほかなりません。
現地に入って原因究明に当たる中、私自身も公明党議員が現場に深く入り込んで調査活動を行っていたことをよく耳にしました。私たち研究班は当時、そのことを心強く思っていたことを今も覚えています。
◆神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会の高木勲寛代表
当時はイタイイタイ病の「公害病」認定に、また最近では2012年春に整備予定の県立イタイイタイ病資料館の設置構想に対し、公明党には、私たち被害者の側に立って支え続けていただきました。
この中で私は、公明党が一貫して「命と環境を大事にする」という主義主張を貫いていることに感銘を受けた次第です。
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
平成医新より
イタイイタイ病については国会議員も動き出すことになった。昭和42年5月25日、参議院議員の矢追秀彦氏が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な 様子を見て涙を流した。そしてこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」とわび頭を下げた。矢追は大阪出身の医師であった。彼は涙を流しながら、「こんなことが許されるはずはありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる」と約束してくれた。
昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素 朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。
参考:イタイイタイ病(金沢医科大学公衆衛生学教室)
参考:平成医新「萩野昇:富山のシュヴァイツァー」