「助かる命が救えない。こんな バカな話があるか!」。1人の議員の叫びが実現へ扉を開いた。
参考写真 救急車の中で苦しむ患者に点滴も打てず、“医療空白の時間”に頭を抱える救急隊員がいました。それを知り、公明党の参議院議員が叫びを上げました。「助かるはずの命が救えない。こんなバカな話があるか!」。その徹底した現場第一主義に裏付けられた主張は、省庁間の対立で立ち往生していた永田町に風穴を開け、ついに「救急救命士」制度の創設を実現させました。
 救急救命士制度創設への公明党参議院の戦いを、公明新聞(2010年6月12日付け)記事をもとに、まとめてみました。

 「先生、急患です! 1〜2歳。男児。DOA(心肺停止状態)!」。看護師の叫び声が院内に響き渡りました。その瞬間、医師・山本保博は救急搬送された患者のもとへ脱兎のごとく走りました。男児はすでに血色を失っていました。「頭をやられている。すぐレントゲンだ!」。山本の指示が飛んだ。その山本に、一人の老婦人がすがりついて泣き叫んだ。「この子を助けて!」。男児を背負って自転車に乗っていたところを、交通事故に遭ってしまったその子の祖母でした。
 日本医科大学救命救急センター(当時、東京都文京区)で繰り広げられた、この衝撃的な光景を目の当たりにしたのは、たまたま、同センターを視察中の公明党参院議員常松克安、衆院議員坂口力でした。1989年10月18日の出来事です。
 当時、外国と比べ、日本の救急隊員が搬送中に行える応急処置は少なく、人工呼吸や心臓マッサージ、止血などに限られていました。救急医療の拡充が進まない背景には、省庁間の意見対立がありました。特に「医師でなければ、医業をなしてはならない」という医師法(17条)が大きな壁となっていました。
 「外国で可能な処置が、なぜ日本でできないのか!」。あの視察から約1カ月後の11月17日、参院決算委員会で常松は、搬送中のパラメディック(高度な応急処置)の必要性を訴えました。しかし、政府は、後ろ向きな答弁に終始しました。「助かるはずの命が救われるのだから、一刻も早く取り組むべきではないか!」。常松の胸には、大きな“怒り”がこみ上げました。
 常松は行動を開始しました。「現場にこそ、知恵がある」と、北海道から沖縄まで計40カ所以上の消防署を訪ね歩きました。そこには、「注射を打つことができない!」「患者の腕から点滴の針が抜けても、何もできない!」などと悔しがりつつも、懸命に働く救急隊員が存在しました。国会質問で常松は、こうした実情を訴え、「救急救命士」制度の実現をと、強く主張しました。
 しかし、他党議員は常松を「歩く救急車」と揶揄し、高級官僚は「票になる話でもないのに……」と冷笑するなど、永田町周辺は冷ややかな対応でした。ただ、マスコミは常松の戦いへの追い風となりました。救急医療を扱うテレビ特番が組まれ、常松も番組に出演するなど、救急救命士制度創設への世論が高まりました。
 そして1990年5月28日、常松は参院予算委質疑で、ついに自治相から「パラメディック制度の導入は喫緊の問題として必要」との答弁を引き出しました。翌91年4月18日、「救急救命士法」成立へとこぎつけました。これによって、救急救命士の応急処置範囲は大きく拡大。心臓停止患者への電気ショック(除細動)、器具を使った気道確保、血圧の測定、さらに輸血、点滴にまで広がりました。公明党の提案から、わずか1年5カ月余りのスピード成立でした。
 こうした常松の活動は、2004年2月24日に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「救急救命士」の誕生秘話として紹介され、大きな話題となりました。
 その後、公明党の推進で、救急救命士が可能な応急処置は、2004年7月からは気管内挿管が可能になり、より多くの尊い人命が救われることになりました。
 制度創設から19年。今、救急救命士として活躍する隊員は全国に1万9368人(2009年4月現在)。救急救命士“第1期”の1人である志賀寧(現宮城県塩釜地区消防本部次長)は、その使命を「病院に搬送するまでに患者の命をつなぎ、命を救うキーマン」と語っています。彼らの奮闘によって、今日も“助かるはずの命”が、確実に救われています。
証言:東京臨海病院病院長・山本保博氏
 「ここまでやるか」と思うほど、公明は現場主義に徹していた。だから、改革が進んだ。
 救急搬送中に、患者の蘇生行為や高度な応急処置を行い、悪化を防ぐ仕事を担ってきたのが救急救命士です。公明党の強い推進によって救急救命士制度が創設され、日本の救急医療制度が全般にわたって大きく前進したのは周知の事実です。
 公明党と私のかかわりは、1989年、常松克安参院議員(当時)が日本医科大学救命救急センター(当時)を視察されたのがきっかけでした。その後、常松議員は救急医療の実態調査のため、毎晩のように救命センターに来ては、救急医療の現場を見聞されていました。その姿は、いくら現場主義といっても「ここまでやるのか」と思うくらいの徹底ぶりでした。
 また、公明党はAED(自動体外式除細動器)の普及にも取り組んできました。これも大事です。今後は、さらなる救命率向上のため、地域ごとに設置場所が手軽に把握できる情報共有の整備が望まれます。
 これからの医療体制は、“地域の命は地域で守る”、人が人を支え合う「地域内ケア」の視点が大事になってきます。国・地方で3000人以上の議員数に上る公明党は、徹底した現場主義の原点を忘れず、ぜひ、さまざまな医療の課題に取り組んでほしいと思います。
 このブログを掲載するに当たって、様々なインターネット上の情報に目を通したところ、著名なジャーナリスト黒岩祐治氏のHP“黒岩祐治 明日を食らう”に、大変興味深いコラムを見つけました。いか、ご紹介させていただきます。
救急救命士誕生の背景と今後の課題
(麻酔を核とした総合誌「リサ」Vol.03 No.11 1996-11)
コラム2:国会審議点描
 救急救命士の導入によって、わが国はプレホスピタルケアの柱を米国型パラメディック制に求め、フランス(SAMU)型ドクターカー制度導入を捨てたようにみえるかもしれないが、本法案の制定審議過程をよく調べると、ドクターカーの普及拡充こそ理想とし、救命士はむしろそれまでの「つなぎ」と位置付けられているようである。なお、気管内挿管の是非には国会審議上は白黒をつけていない。
 国会では、「セルシン、ボスミン、ニトログリセリン、キシロカイン、プロタノールなども救命士が使えるよう検討してほしい」といった踏み込んだ指摘をする議員(常松)もいる一方で、ある議員は自分も医師だが、と前置きし、「医師でない者が注射という医療行為を行うのは問題。救命救急だから、という抜け道はけしからん。風邪引きでも何でも救命救急は必要なんです」と意味不明に憤慨している。同議員は精神科医師である。
コラム3:大蔵大臣の涙
救命士法案提出に先立つ第118回国会(平成2年5月28日)でも、常松克安議員が救急医療に対する政府の対応を追及した。最後に財政支出について答弁に立った大蔵大臣はまた、委員の質問から離れ、自分の母親がその2年前に倒れたときにDOA(CPAOA)となり、蘇生されたものの依然長期療養中であること、そして救急隊員の処置がもう少し広範なものであってほしかった、と述べた。参議院予算委員会でこの個人的感想を洩らしたときの大蔵大臣は、橋本龍太郎現首相である。