「犯罪被害給付制度」とは、犯罪被害者・遺族に対する公的な補償制度。1980年4月に成立したこの制度の創設に当たっては、公明党参議院議員の必死の戦いがありました。公明新聞6月26日付の記事をもとに、犯罪被害給付金制度実現に向けた公明党の活動をご紹介します。
1970年、公明党衆院議員伏木和雄の傍らで秘書服部信吾(故人)は、市民相談に訪ねてきた市瀬朝一さんの話にわが耳を疑いました。
市瀬さんは66年、通り魔に最愛の息子さんの命を奪われていました。悲しみを振り切るかのように、「遺族会」(「犯罪による被害者補償制度を促進する会」の前身の一つ)を結成し、犯罪被害者補償を求める国会請願を行っていました。しかし、国の返事は“立法化の当否は、慎重に検討したい”と事実上のゼロ回答。自らの工場をたたみ、人生を賭けた市瀬の運動もやがて資金難で立ち往生していました。「国を動かすには力が足りない」。市瀬さんは大きな壁にぶち当り、呻吟していたのです。
「これは大変な問題だ。何かできないか」。後に参院議員となる服部は、何度も自分に問いながら、市瀬とともに犯罪被害者の家へ足を運びました。浮かび上がってきたのは“犯罪の被害に遭った人も悪い”という社会的な風潮でした。服部は75年、横浜市議に当選した後も事務所の一角を提供するなど、市瀬さんの活動を支え続けきました。
1970年、公明党衆院議員伏木和雄の傍らで秘書服部信吾(故人)は、市民相談に訪ねてきた市瀬朝一さんの話にわが耳を疑いました。
市瀬さんは66年、通り魔に最愛の息子さんの命を奪われていました。悲しみを振り切るかのように、「遺族会」(「犯罪による被害者補償制度を促進する会」の前身の一つ)を結成し、犯罪被害者補償を求める国会請願を行っていました。しかし、国の返事は“立法化の当否は、慎重に検討したい”と事実上のゼロ回答。自らの工場をたたみ、人生を賭けた市瀬の運動もやがて資金難で立ち往生していました。「国を動かすには力が足りない」。市瀬さんは大きな壁にぶち当り、呻吟していたのです。
「これは大変な問題だ。何かできないか」。後に参院議員となる服部は、何度も自分に問いながら、市瀬とともに犯罪被害者の家へ足を運びました。浮かび上がってきたのは“犯罪の被害に遭った人も悪い”という社会的な風潮でした。服部は75年、横浜市議に当選した後も事務所の一角を提供するなど、市瀬さんの活動を支え続けきました。
そのころ、社会情勢にもおおきな変化が起きました。74年8月に起きた三菱重工ビル爆破事件を機に、マスコミが犯罪被害者をめぐる補償の在り方を論じるようになったのです。市瀬さんも、刑法学の専門家である同志社大学教授大谷實先生の協力を得て、運動に拍車を掛けていきました。社会的関心は一気に高まりました。
公明党の動きは迅速でした。75年3月1日には、他党に先駆けて、犯罪被害者補償法要綱を発表し、翌76年5月15日には、犯罪被害補償法案を議員立法で参院に提出。それが廃案になっても、その度に独自法案を国会に提出し続けました。その動きには、法務省側も「わが国で最も早くこの(補償)制度の立法化を考えられた公明党」と国会答弁で言及するほどでした。
そして77年1月19日、法務省が予算の復活折衝で、犯罪被害者補償制度の立法調査費を計上。ついに、改革への突破口が開きました。だが、この“朗報”を聞くことなく、病の床にあった市瀬さんは帰らぬ人となりました。調査費復活決定の3日前のことです。
市瀬さんが亡くなった後も、服部議員の闘志はさらに燃え上がりました。「促進する会」会長となった市瀬さんの妻・みゆきさんを支え、会の運営を一身に担ったのも服部議員です。78年2月3日には、6万人の署名簿を添え、国に立法化の早期実現を迫り、当時の法務相から「できる限り早く立法化するよう努力したい」という答弁を勝ち取りました。
また、市瀬さんの苦闘の生涯をまとめた一冊の本(「もう泣き寝入りはご免だ!」)を出版。この本が参考資料となり、ノンフィクション本も発刊されました。さらに、巨匠・木下恵介監督(故人)による映画「衝動殺人 息子よ」が79年9月に全国公開され、名優・若山富三郎(故人)が演じた市瀬朝一さんの生涯に、日本中から大きな反響が寄せられました。
そして80年4月23日、「犯罪被害者等給付金支給法」が成立し、犯罪被害者救済への第一歩が踏み出されたのです。
犯罪被害者等給付金の支給裁定(決定)を受けた被害者数は、2009年時点で6716人に上ります。公明党は今日まで、「犯罪被害者等基本法」の制定、支給対象拡大や給付金額引き上げの法改正などを実現してきました。しかし、まだまだ不十分な点も指摘されています。公明党犯罪被害者等保護・救済に関するプロジェクトチーム座長の漆原良夫衆院議員は「犯罪被害者を支える社会をめざし、支給拡大などに全力を尽くします」と語っています。
学校法人同志社総長大谷實先生の証言
市民の側から見て、公明の法律要綱が一番詳しかった。対応も早くて適切だった。
犯罪被害者等給付金支給法は、市民の側から初めて立法運動を行った法律と言えるでしょう。
1966年ごろ、私は刑法改正問題に取り組む中で「通り魔」犯罪に注目し、殺人事件の被害者実態調査を行った結果、被害者遺族が経済的な救済を全く得られていないことが分かりました。そこを出発点に、犯罪被害者救済問題に関心を抱くようになりました。
英国で被害者補償の研究を学んだ後、被害者遺族に呼び掛け「犯罪による被害者補償制度を促進する会」を結成し、市民運動を展開しました。74年8月に起きた三菱重工ビル爆破事件を機に、マスコミが犯罪被害者救済を大きく報じるようになり、その直後、市瀬朝一さんが訪ねてきたのです。
政治の世界では、犯罪被害補償に関する法律要綱を各党がつくりましたが、公明党が一番早くて、最も詳しい内容でした。公明案は、私どもが考えた、過去に遡って適用する「遡及適用」にも十分配慮されており、社会の責任として、国が加害者に代わって犯罪被害者補償を行うという理論的根拠を踏まえたものでした。
公明党は、市民の側から見れば、具体化への動きが非常に良く、一番適切な対応をされていたという印象です。これは、事実です。
公明党の動きは迅速でした。75年3月1日には、他党に先駆けて、犯罪被害者補償法要綱を発表し、翌76年5月15日には、犯罪被害補償法案を議員立法で参院に提出。それが廃案になっても、その度に独自法案を国会に提出し続けました。その動きには、法務省側も「わが国で最も早くこの(補償)制度の立法化を考えられた公明党」と国会答弁で言及するほどでした。
そして77年1月19日、法務省が予算の復活折衝で、犯罪被害者補償制度の立法調査費を計上。ついに、改革への突破口が開きました。だが、この“朗報”を聞くことなく、病の床にあった市瀬さんは帰らぬ人となりました。調査費復活決定の3日前のことです。
市瀬さんが亡くなった後も、服部議員の闘志はさらに燃え上がりました。「促進する会」会長となった市瀬さんの妻・みゆきさんを支え、会の運営を一身に担ったのも服部議員です。78年2月3日には、6万人の署名簿を添え、国に立法化の早期実現を迫り、当時の法務相から「できる限り早く立法化するよう努力したい」という答弁を勝ち取りました。
また、市瀬さんの苦闘の生涯をまとめた一冊の本(「もう泣き寝入りはご免だ!」)を出版。この本が参考資料となり、ノンフィクション本も発刊されました。さらに、巨匠・木下恵介監督(故人)による映画「衝動殺人 息子よ」が79年9月に全国公開され、名優・若山富三郎(故人)が演じた市瀬朝一さんの生涯に、日本中から大きな反響が寄せられました。
そして80年4月23日、「犯罪被害者等給付金支給法」が成立し、犯罪被害者救済への第一歩が踏み出されたのです。
犯罪被害者等給付金の支給裁定(決定)を受けた被害者数は、2009年時点で6716人に上ります。公明党は今日まで、「犯罪被害者等基本法」の制定、支給対象拡大や給付金額引き上げの法改正などを実現してきました。しかし、まだまだ不十分な点も指摘されています。公明党犯罪被害者等保護・救済に関するプロジェクトチーム座長の漆原良夫衆院議員は「犯罪被害者を支える社会をめざし、支給拡大などに全力を尽くします」と語っています。
学校法人同志社総長大谷實先生の証言
市民の側から見て、公明の法律要綱が一番詳しかった。対応も早くて適切だった。
犯罪被害者等給付金支給法は、市民の側から初めて立法運動を行った法律と言えるでしょう。
1966年ごろ、私は刑法改正問題に取り組む中で「通り魔」犯罪に注目し、殺人事件の被害者実態調査を行った結果、被害者遺族が経済的な救済を全く得られていないことが分かりました。そこを出発点に、犯罪被害者救済問題に関心を抱くようになりました。
英国で被害者補償の研究を学んだ後、被害者遺族に呼び掛け「犯罪による被害者補償制度を促進する会」を結成し、市民運動を展開しました。74年8月に起きた三菱重工ビル爆破事件を機に、マスコミが犯罪被害者救済を大きく報じるようになり、その直後、市瀬朝一さんが訪ねてきたのです。
政治の世界では、犯罪被害補償に関する法律要綱を各党がつくりましたが、公明党が一番早くて、最も詳しい内容でした。公明案は、私どもが考えた、過去に遡って適用する「遡及適用」にも十分配慮されており、社会の責任として、国が加害者に代わって犯罪被害者補償を行うという理論的根拠を踏まえたものでした。
公明党は、市民の側から見れば、具体化への動きが非常に良く、一番適切な対応をされていたという印象です。これは、事実です。