東日本大震災の津波で消失した、岡倉天心ゆかりの国登録有形文化財「六角堂」を管理する茨城大学の池田幸雄学長は、4月18日、六角堂を再建する方針を発表しました。
池田学長は、記者会見で「(六角堂は)国民的な文化財。海中から引き揚げるか、設計図に基づいて再建するかしたい」と述べました。茨城大では今後、海中調査を進めるなど六角堂の復旧・再建に向けた具体的な検討に入るとしています。
3月11日の震災による大津波で、六角堂は土台部分を残して完全に流失しました。茨大によると、流失直後に沖合20〜30メートルに建物が流されているのを五浦研究所の職員が確認し、写真撮影をしています。
茨大では2010年末までに六角堂を測定し、詳細な設計図を作成しています。池田学長は「(レプリカによる)再建は容易」としています。しかし、「六角堂は岡倉天心が造り、実際に瞑想をしていたところ。できる限り実物を元に戻したい」と語り、今後、海中調査を実施して流失した建物を回収したいとの意向を示しました。また、「国民的な文化財という観点から文部科学省に対し、回収をお願いする」と、国に対しても支援を要請すると語りました。
六角堂は、明治38年に岡倉天心に設計され建築されました。この時代は、西洋文明の荒波が日本に押し寄せた時代でした。「日本美術の真価と日本人の心を広く世界中に伝えたい」という情熱にかられた天心は、明治36年、五浦の土地を買い求め、2年後には居宅と六角堂、少し離れた高台に日本美術院研究所を建設しました。日本美術院には、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などの弟子を呼び寄せ、近代日本画の基礎を造りました。
六角堂の広さは、10平方メートル程度。天心が描いた図面をもとに、地元の漁村平潟の舟大工、小倉源蔵が建てたといわれています。室内の中央には六角の炉が切られて畳が敷かれていました。周囲にはガラス戸がはめこまれいました。
なぜ六角形なのか。天心は、仏教、道教に深い関心を寄せており、宇宙を示す六角形にこだわりを持っていたからといわれています。その上、明治26年、中国美術調査のため、中国(清国)の四川省成都を訪問した際に、詩人杜甫の旧跡を見て大いに感銘を受けました。杜甫の草堂のイメージに、朱塗りの柱や屋根の宝珠など仏教建築の要素を加え、さらに床の間と炉を切って茶室の雰囲気を取り入れ、中国の道教、仏教、そして日本の茶の精神が渾然一体となった、毒せ王的な建物が生まれたのです。
ちなみに、六角堂とは通称で、天心自身は『観瀾亭(かんらんてい)』と呼んでいました。瀾=大波を見るあずまやという意味です。室内に座って海を眺めると目線が水平線の高さになり、まるで小舟に乗っている感じになったといわれています。
(このブログ記事は、茨城新聞、産経新聞、日経新聞などの記事を参考に作成しました。被災前の写真は観光いばらき“写真ひろば”の写真を利用させていただきました。流出後の写真は、3月14日井手よしひろ県議が撮影したものです)
近々本校では文化祭を開催します。そこで、今回は3月の地震による茨城県の被害状況を展示し、復興支援金を募り、茨城県に寄付をいたします。文化財の被害も取り上げるのですが、それをパンフレットにて紹介する際に、こちらに載っている六角堂の写真を転用して載せるご許可を頂きたくメールを致しました。
流失前の写真は、茨城県観光協会からお借りすることをご許可いただきました。そこで、流失後のお写真をお借りしたいのですがいかがでしょうか。
本来であれば、お電話をし、正式な依頼を・・と思いましたが、このような形での依頼となり大変申し訳ございません。ぜひご許可いただきたく、何卒よろしくお願いいたします。