2月28日、福島第一原子力発電所の事故の検証を進めてきた「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)が、28日、日米の政府関係者など、およそ300人からの聞き取りをもとにした報告書を公表しました。このブログでは、NHKウェッブや産経新聞の記事から、民間事故調の報告書のうち、官邸の危機管理に関するポイントを取りまとめました。
民間事故調は、福島原発事故を、国から独立した立場で検証する委員会として、去年10月に発足しました。委員長は、科学技術振興機構の前理事長・北澤宏一氏が務め、元検事総長の但木敬一氏や一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏ら合わせて6人の有識者が委員を務めています。
参考:「福島原発事故独立検証委員会」のホームページ
民間事故調の最大の特徴は、しがらみがない、自由度の高い調査機関であるということです。現在、福島原発の事故原因や政府の対をを検証する委員会は、政府が設置した事故調査・検証委員会(政府事故調)、国会が設置した事故調査委員会(国会事故調)とこの民間事故調の3つが活動を続けています。民間事故調は、特定の機関から調査を委託されていないため、もっとも独自性が高い委員会です。財政的な支援も減力事業者などからは一切提供を受けていません。
民間事故調の調査には、菅前総理大臣や枝野経済産業大臣、海江田元経済産業大臣、細野原発事故担当大臣ら事故対応の中心を担った日本の政治家のほか、アメリカの国家安全保障会議、原子力規制委員会の幹部らも応じ、およそ300人の聞き取りをもとに作成されました。
しかし、事故の当事者である東京電力は、事故自体が継続中であるなどの理由で調査に応じませんでした。
民間事故調は、福島原発事故を、国から独立した立場で検証する委員会として、去年10月に発足しました。委員長は、科学技術振興機構の前理事長・北澤宏一氏が務め、元検事総長の但木敬一氏や一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏ら合わせて6人の有識者が委員を務めています。
参考:「福島原発事故独立検証委員会」のホームページ
民間事故調の最大の特徴は、しがらみがない、自由度の高い調査機関であるということです。現在、福島原発の事故原因や政府の対をを検証する委員会は、政府が設置した事故調査・検証委員会(政府事故調)、国会が設置した事故調査委員会(国会事故調)とこの民間事故調の3つが活動を続けています。民間事故調は、特定の機関から調査を委託されていないため、もっとも独自性が高い委員会です。財政的な支援も減力事業者などからは一切提供を受けていません。
民間事故調の調査には、菅前総理大臣や枝野経済産業大臣、海江田元経済産業大臣、細野原発事故担当大臣ら事故対応の中心を担った日本の政治家のほか、アメリカの国家安全保障会議、原子力規制委員会の幹部らも応じ、およそ300人の聞き取りをもとに作成されました。
しかし、事故の当事者である東京電力は、事故自体が継続中であるなどの理由で調査に応じませんでした。
菅首相の危機管理は“不合格”
2月28日午後、民間事故調は東京都内で記者会見を開きました。
この中で、委員長を務める北澤宏一氏は、当時の菅首相の事故対応について「原発から撤退したいと申し出てきた東京電力に対し、みずから本店に乗り込みげきを飛ばして、結果的に50人の作業員が原発に残ることになったことについては、最悪のシナリオを避けられたこともあり、功績は大きかったと思うところもある。しかし、菅前総理大臣が電池の大きさ1つにまで関与するなど、官邸によって行われた現場への過剰な介入のほとんどについては評価することができない。さらに、総理大臣は情報の出し方に失敗し、国民の間に不信感が広がることになり、全体的には対応は不合格だったと言わざるをえない」と述べました。
また、元検事総長の但木敬一氏は「国が作り出した絶対的な安全神話は、反原発運動に対抗する道具として使われた。ところが、国はその安全神話にみずからしばられて、最新の技術的な知見を取り入れることさえ、できない体質に陥っていた」と指摘しました。その上で、「風力や太陽光などの自然エネルギーによる代替が難しいなかでは、われわれの生活を縮小するか、原子力を使い続けるかのどちらかを選ばざるをえない。原子力を使い続けるのならば、今回の事故原因をきっちりと究明して、一つ一つの原発について危機管理の対策を立て、管理がきちんと実行される体制をつくることが必要だ」と述べました。
官邸の対応は“場当たり的・泥縄的”
報告書は「場当たり的、泥縄的だった」という表現で官邸の対応のまずさを厳しく指摘しました。
民間事故調の聴き取り調査で、菅前総理大臣ら複数の政治家は「原子力災害対策のマニュアルは頭に入っておらず、当初、事務方からの説明もなかった」などと証言しています。事故が起きてから4日後の3月15日に政府と東京電力の対策統合本部が設置されるまで、原子力災害時のマニュアルについて、菅前総理大臣に対する事務方からの説明は一度もありませんでした。事故直後、官邸では、スタッフが六法全書を持ち出して、慌ただしくページをめくりながら基本的な法律を一から確認しているありさまだったということです。
当時の福山官房副長官も「官邸に詰めてからおよそ半年の間に事務方から防災関係の説明を受けた記憶はなく、正直言って原子力安全・保安院がどういう役割や機能を果たしているか、あまり認識がなかった。事務方が状況を把握したうえで、情報を上げてくると思っていたのは大きな間違いだった」と述べています。
有効活用されなかった放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」については、菅首相ら官邸トップがその存在すら知らなかったことを証言から裏付け、「宝の持ち腐れに終わった」と結論づけています。
東京電力と原子力安全・保安院から具体的な事故の情報が伝えられない中、総理大臣や官邸の政治家は、事故から数日の間、格納容器内の気体を放出して圧力を下げる「ベント」や原子炉への海水注入の是非の判断など、本来はマニュアルで、東電の福島第1原発の所長に任されている現場の意思決定に、次々と介入していきました。素人とが専門官の判断に口出ししていった結果は推して知るべしでした。
報告書は「サポートする事務方の体制がぜい弱ななかで、官邸の政治家たちは基礎的な認識を欠いたまま、場当たり的、泥縄的な対応に追われていた」と指摘し「今後は、政府部内での防災マニュアルやアドバイスの体制を早急に見直す必要がある」と提言しています。
官邸と東電・専門家との不信の連鎖
報告書では、政府や官僚、東京電力などの間で、情報の共有がうまくいかず、相互不信が大きくなっていく様子が事細かに記されています。
福島原発事故では、原発のすべての交流電源が喪失したことから起きたため、官邸がまず取った行動は原発に電力を供給する電源車の確保でした。官邸は、事故が起きた3月11日の夜には全国から電源車を確保し、次々に福島第一原発に向かわせました。
しかし、電源はなかなか復旧しません。報告書は政府が東京電力に不信を募らせていくきっかけは、ここにあったと指摘しています。
当時の枝野官房長官は「電源車は着いているはずなのに電源が通らない。なぜ通らないのかと、いくら聞いてもその理由が入ってこない。東京電力に対する不信はそれぐらいから始まっています」と当時を振り返っています。
このころ、政府は専門家に対する不信も増幅させていきます。
事故翌日の3月12日早朝、原子力安全委員会の班目委員長は菅前総理大臣とともにヘリコプターで福島第一原発へ向かいます。
その途中、菅首相は、班目委員長に「原発の炉心が溶けたらどうなるのか」と質問します。これに対して、班目委員長は「反応で水素が出ます。しかし、格納容器の中は窒素が充填されていて酸素がないので、水素は爆発しません」と回答しました。しかし、その8時間後、1号機で水素爆発が起きます。
菅首相の班目委員長への不信感はピークに達し、外部の専門家を次々と内閣官房参与として任命していきました。
相次ぐ参与の任命について、官邸スタッフの1人は「何の責任も権限もない専門知識も疑わしい人たちが、重大な決定に関与するのは問題だと思いました」と語っています。
また、菅首相は第1原発に代替バッテリーが必要と判明した際には、自分の携帯電話で担当者に「大きさは」「縦横何メートル」「重さは」などと質問し、熱心にメモをとっていた姿が報告されています。同席者は「首相がそんな細かいことまで聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした」と述べていました。
菅首相の独断専行
3月12日の早朝、1号機で原子炉格納容器の圧力を下げるベントがなかなか実施されず、菅前総理大臣はヘリコプターで福島第一原発に向かいます。
その際、当時の枝野官房長官が「絶対にあとから政治的な批判をされる」と現地入りに反対したのに対し、菅総理大臣は「政治的に非難されるのと原発をコントロールできるのとどっちが大事なんだ」と答え、枝野長官は「分かっているならどうぞ」と応じました。
3月15日未明、2号機では核燃料が露出して爆発の危険性も指摘されました。東京電力から官邸に撤退とも受け取れる打診が行われます。
午前3時半ごろ、総理大臣や官房長官などが集まって、対応を協議した際、菅首相は「このまま水を入れるのをやめて放置し、放射性物質が出続けたら、東日本全体がおかしくなる」などと述べ、当時の細野総理大臣補佐官が東京電力に常駐することになったということです。
事故の教訓をどのように活かすか
報告書は「事故からの教訓」という項目の冒頭で、官邸スタッフの「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」ということばを引用し、「結果として原子炉の相次ぐ爆発や、さらに大規模な放射性物質の拡散という事態には至らなかったが、一歩間違えればという危険な状況が何度も起きていた」と指摘しました。
その上で、今回の官邸の対応について、相次ぐ災害への備えに対応できなかったマニュアルや、危機対応についての政治家の基本的な認識不足、構造的な情報伝達の遅れ、それに官僚機構の人材不足、官邸を技術面でアドバイスする体制のぜい弱さ、総理大臣のリーダーシップの在り方、を問題点として挙げ、早急な見直しを求めています。
また、原子力発電所を所管する経済産業省の原子力安全・保安院については、組織の中で安全規制のプロが育っていないため、人材も理念も乏しく、今回の事故では、収束に向けた専門的な企画、立案も行えなかったと厳しく指摘しました。
さらに、東京電力については、事故発生後、原子炉を冷却する非常用復水器が働いていないことに気づかず、かわりとなる冷却もすぐには始めなかったうえ、大きな危機を回避するためのベント作業にも手間取ったとして事故拡大の要因を作ったと指摘しています。
そしてこうした課題や教訓は原子力災害だけにとどまらず日本の危機管理全体などに通じるものだと締めくくっています。
2月28日午後、民間事故調は東京都内で記者会見を開きました。
この中で、委員長を務める北澤宏一氏は、当時の菅首相の事故対応について「原発から撤退したいと申し出てきた東京電力に対し、みずから本店に乗り込みげきを飛ばして、結果的に50人の作業員が原発に残ることになったことについては、最悪のシナリオを避けられたこともあり、功績は大きかったと思うところもある。しかし、菅前総理大臣が電池の大きさ1つにまで関与するなど、官邸によって行われた現場への過剰な介入のほとんどについては評価することができない。さらに、総理大臣は情報の出し方に失敗し、国民の間に不信感が広がることになり、全体的には対応は不合格だったと言わざるをえない」と述べました。
また、元検事総長の但木敬一氏は「国が作り出した絶対的な安全神話は、反原発運動に対抗する道具として使われた。ところが、国はその安全神話にみずからしばられて、最新の技術的な知見を取り入れることさえ、できない体質に陥っていた」と指摘しました。その上で、「風力や太陽光などの自然エネルギーによる代替が難しいなかでは、われわれの生活を縮小するか、原子力を使い続けるかのどちらかを選ばざるをえない。原子力を使い続けるのならば、今回の事故原因をきっちりと究明して、一つ一つの原発について危機管理の対策を立て、管理がきちんと実行される体制をつくることが必要だ」と述べました。
官邸の対応は“場当たり的・泥縄的”
報告書は「場当たり的、泥縄的だった」という表現で官邸の対応のまずさを厳しく指摘しました。
民間事故調の聴き取り調査で、菅前総理大臣ら複数の政治家は「原子力災害対策のマニュアルは頭に入っておらず、当初、事務方からの説明もなかった」などと証言しています。事故が起きてから4日後の3月15日に政府と東京電力の対策統合本部が設置されるまで、原子力災害時のマニュアルについて、菅前総理大臣に対する事務方からの説明は一度もありませんでした。事故直後、官邸では、スタッフが六法全書を持ち出して、慌ただしくページをめくりながら基本的な法律を一から確認しているありさまだったということです。
当時の福山官房副長官も「官邸に詰めてからおよそ半年の間に事務方から防災関係の説明を受けた記憶はなく、正直言って原子力安全・保安院がどういう役割や機能を果たしているか、あまり認識がなかった。事務方が状況を把握したうえで、情報を上げてくると思っていたのは大きな間違いだった」と述べています。
有効活用されなかった放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」については、菅首相ら官邸トップがその存在すら知らなかったことを証言から裏付け、「宝の持ち腐れに終わった」と結論づけています。
東京電力と原子力安全・保安院から具体的な事故の情報が伝えられない中、総理大臣や官邸の政治家は、事故から数日の間、格納容器内の気体を放出して圧力を下げる「ベント」や原子炉への海水注入の是非の判断など、本来はマニュアルで、東電の福島第1原発の所長に任されている現場の意思決定に、次々と介入していきました。素人とが専門官の判断に口出ししていった結果は推して知るべしでした。
報告書は「サポートする事務方の体制がぜい弱ななかで、官邸の政治家たちは基礎的な認識を欠いたまま、場当たり的、泥縄的な対応に追われていた」と指摘し「今後は、政府部内での防災マニュアルやアドバイスの体制を早急に見直す必要がある」と提言しています。
官邸と東電・専門家との不信の連鎖
報告書では、政府や官僚、東京電力などの間で、情報の共有がうまくいかず、相互不信が大きくなっていく様子が事細かに記されています。
福島原発事故では、原発のすべての交流電源が喪失したことから起きたため、官邸がまず取った行動は原発に電力を供給する電源車の確保でした。官邸は、事故が起きた3月11日の夜には全国から電源車を確保し、次々に福島第一原発に向かわせました。
しかし、電源はなかなか復旧しません。報告書は政府が東京電力に不信を募らせていくきっかけは、ここにあったと指摘しています。
当時の枝野官房長官は「電源車は着いているはずなのに電源が通らない。なぜ通らないのかと、いくら聞いてもその理由が入ってこない。東京電力に対する不信はそれぐらいから始まっています」と当時を振り返っています。
このころ、政府は専門家に対する不信も増幅させていきます。
事故翌日の3月12日早朝、原子力安全委員会の班目委員長は菅前総理大臣とともにヘリコプターで福島第一原発へ向かいます。
その途中、菅首相は、班目委員長に「原発の炉心が溶けたらどうなるのか」と質問します。これに対して、班目委員長は「反応で水素が出ます。しかし、格納容器の中は窒素が充填されていて酸素がないので、水素は爆発しません」と回答しました。しかし、その8時間後、1号機で水素爆発が起きます。
菅首相の班目委員長への不信感はピークに達し、外部の専門家を次々と内閣官房参与として任命していきました。
相次ぐ参与の任命について、官邸スタッフの1人は「何の責任も権限もない専門知識も疑わしい人たちが、重大な決定に関与するのは問題だと思いました」と語っています。
また、菅首相は第1原発に代替バッテリーが必要と判明した際には、自分の携帯電話で担当者に「大きさは」「縦横何メートル」「重さは」などと質問し、熱心にメモをとっていた姿が報告されています。同席者は「首相がそんな細かいことまで聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした」と述べていました。
菅首相の独断専行
3月12日の早朝、1号機で原子炉格納容器の圧力を下げるベントがなかなか実施されず、菅前総理大臣はヘリコプターで福島第一原発に向かいます。
その際、当時の枝野官房長官が「絶対にあとから政治的な批判をされる」と現地入りに反対したのに対し、菅総理大臣は「政治的に非難されるのと原発をコントロールできるのとどっちが大事なんだ」と答え、枝野長官は「分かっているならどうぞ」と応じました。
3月15日未明、2号機では核燃料が露出して爆発の危険性も指摘されました。東京電力から官邸に撤退とも受け取れる打診が行われます。
午前3時半ごろ、総理大臣や官房長官などが集まって、対応を協議した際、菅首相は「このまま水を入れるのをやめて放置し、放射性物質が出続けたら、東日本全体がおかしくなる」などと述べ、当時の細野総理大臣補佐官が東京電力に常駐することになったということです。
事故の教訓をどのように活かすか
報告書は「事故からの教訓」という項目の冒頭で、官邸スタッフの「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」ということばを引用し、「結果として原子炉の相次ぐ爆発や、さらに大規模な放射性物質の拡散という事態には至らなかったが、一歩間違えればという危険な状況が何度も起きていた」と指摘しました。
その上で、今回の官邸の対応について、相次ぐ災害への備えに対応できなかったマニュアルや、危機対応についての政治家の基本的な認識不足、構造的な情報伝達の遅れ、それに官僚機構の人材不足、官邸を技術面でアドバイスする体制のぜい弱さ、総理大臣のリーダーシップの在り方、を問題点として挙げ、早急な見直しを求めています。
また、原子力発電所を所管する経済産業省の原子力安全・保安院については、組織の中で安全規制のプロが育っていないため、人材も理念も乏しく、今回の事故では、収束に向けた専門的な企画、立案も行えなかったと厳しく指摘しました。
さらに、東京電力については、事故発生後、原子炉を冷却する非常用復水器が働いていないことに気づかず、かわりとなる冷却もすぐには始めなかったうえ、大きな危機を回避するためのベント作業にも手間取ったとして事故拡大の要因を作ったと指摘しています。
そしてこうした課題や教訓は原子力災害だけにとどまらず日本の危機管理全体などに通じるものだと締めくくっています。