公明党は、昨年末の衆院選勝利で政権与党に復帰し、国民と約束した「日本再建」に全力で取り組んでいます。その改革の“果実”を着実、迅速に国民に還元していくためにも、今夏の参院選に勝利し、政治を安定させていくことが不可欠です。今年最大の政治決戦である参院選を半年後に控え、あらためて公明党の原点となった参院進出と国政での闘い、参院選の意義を公明党新聞や公明党のホームページの資料からまとめました。
“まさか”が実現、昭和31年4人の参議院議員が誕生
参考写真 公明党の国政進出は、参議院から始まりました。初挑戦となる1956年(昭和31年)の第4回参院選では、公明系無所属の3人が当選を果たします。とりわけ、定数3の大阪地方区(現在の選挙区)では、圧倒的不利な情勢を覆し、候補の白木義一郎氏(故人)が約21万票を獲得して大勝利します。当時のマスコミは「“まさか”が実現」「全国の人たちをアッといわせた」(いずれも同年7月9日付「朝日」大阪版夕刊)と驚きをもって報道しました。以後、大阪公明党は“常勝関西”の全国にとどろかせています。
 その後、1961年(昭和36年)には、公明党の前身である公明政治連盟(公政連)が結成され、翌年、参議院の院内会派として公明会が発足しました。そして、1964年(昭和39年)、参院議員15人、地方議員1200人余の陣容で公明党が結党されたのです。
 当時は、いわゆる“55年体制”の下、自民党と社会党(当時)による不毛なイデオロギー対決が続き、庶民に政治の光が届くことはありませんでした。こうした中、「中道政治」を高く掲げ、「良識の府」である参院へ進出した公明党は、既成権力のカベや困難な課題に次々と挑戦し、日本の政治に風穴を開け“新風”を吹き込むことになりました。
教科書無償配布・福祉を政治の柱に据えた参議院柏原質問
 公明党の実績を語る時、最初に話題に上るのが『教科書の無償配布の実現』です。
 1963年(昭和38年)3月13日の参議院本議場。「義務教育の教科書を無償にせよ!」「この問題に努力することを約束する!」―。柏原ヤス参院議員(故人)の質問に、当時の池田勇人首相が答弁。「首相が政府全体の方針として言明したのははじめて」(3月13日付「朝日」夕刊)であり、参議院は万雷の拍手で包まれました。
 「福祉」を考える政治家がいなかった時代。既成政党は「福祉を唱えるのは素人」「福祉は政治ではない」などと的外れな批判に終始するばかりでした。それでも、岩盤に爪を立てるような奮闘を貫いたことは「大衆福祉の公明党」の揺るがぬ原点です。
イタイイタイ病患者救済・現場第一主義で公害問題を追及
参考写真 また、日本が高度経済成長で繁栄していた時代の陰で、苦しむ庶民に光を当てたのも参議院公明党でした。富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病。国会で初めてこの問題を取り上げた公明党の矢追秀彦参院議員(故人)は、「大衆とともに」の立党精神を胸に、何度も現地で聞き取り調査を行いました。大企業と政治の大きな壁を前に、ただただ泣き寝入りさせられていた被害者の悲鳴、おえつ―。「現場第一主義」の調査に裏付けられた国会での追及は、大きな反響を呼びました。その結果、1968年(昭和43年)5月に厚生省(当時)がイタイイタイ病を日本初の「公害病」と認定。その後、熊本県の水俣病など、ほかの公害病認定へと波及していきました。
 政治が置き去りにしてきた「福祉」「環境」を、まさに政治の柱に据えたのは参院公明党です。
「安定した政治」で日本再建、参院選予定候補はスペシャリストぞろい
 今夏の参院選の意義の一つは「安定した政治」の実現です。国民は今、景気・経済対策や震災復興など、日本再建に向けた諸課題に落ち着いて取り組み、結果を出す「安定した政治」を望んでいます。
 それは、先の衆院選結果について「政権担当経験がある自公両党による安定した政治、前に進める政治を、有権者が選択した結果にほかならない」(今年1月1日付「読売」社説)などとマスコミが分析している通りです。
 そのためにも、参院選で自民、公明両党が勝利し、参院で与党が過半数に足りない“ねじれ”を解消することが重要になります。
 もう一つの意義は、「国民目線」の政策遂行です。連立政権に加わった公明党の役割について、川上和久・明治学院大学教授は「自民党が目の届かないところに公明党が目配りし、政策ごとにより多くの国民に受け入れられる幅を持たせていくことを期待したい」(昨年12月21日付公明新聞)と指摘しています。
 公明党の参院選予定候補は、経験豊富な現職に加え、新人も弁護士や公認会計士、経営コンサルタントなど多彩で、日本の未来を託せる“庶民派”のスペシャリスト(専門家)ぞろい。国民の声が届く政治に不可欠な人材ばかりです。
 参院選に勝利し、明年の結党50周年へ、日本再建のために全力を挙げて戦ってまいりたいと思います。

公明党の歴史と使命を語る:
リベンジ(雪辱)に燃える関西
1956(昭和31)年、57年――「常勝不敗」の原点刻む、
“負けたらアカン”と挑み続ける

公明新聞(2012/3/20日付)
 公明党は公明新聞の創刊、立党精神の宣言、党結成の「3つの50周年」へ向け前進を開始している。今回の関西議員座談会では、1956(昭和31)年の「まさかが実現」の戦いを原点として活動する議員、党員の姿を紹介しながら、「日本再建」の旗印の下、次期衆院選でのリベンジ(雪辱)に燃える決意を語り合ってもらった。
白浜一良・関西方面議長 関西の公明党には立ち戻るべき「原点」がある。後に公明党を創立された創価学会の池田大作・名誉会長が陣頭指揮を執り、同志が呼応して戦った選挙戦だ。一つは1956(昭和31)年、「まさかが実現」した参院選の戦い。
 当時36歳だった白木義一郎さんが大阪地方区(当時)で初当選した「常勝の原点」。
 もう一つは57年の参院補欠選挙で惜敗した戦い。これは、池田名誉会長が無実の罪で不当逮捕された「大阪事件」につながったわけだが、「戦いは負けたらアカン」という「不敗の原点」になった。この二つの戦いが関西に刻まれた原点だ。
大道義知・京都府本部幹事長 56年といえば、自民党と社会党による「55年体制」が始まった直後だ。企業から支援を受ける自民党と、労働組合をバックに持つ社会党による不毛な対立が続き、庶民は置き去りにされていた。
野口裕・兵庫県本部副代表 大阪地方区の定数3のイスは、どう転がっても自・社の計4人で奪い合うと予想されていた。56年6月15日付の神戸新聞に載った公示直後の情勢記事でも、白木さんは「散票をかなり集めようが競争圏外」と書かれている。
山本香苗・関西女性会議議長 それが、21万票以上を獲得し、自・社で占めるとみられた定数3の一角を崩し当選しました。
小笹正博・大阪府本部幹事長 投票日翌日の朝日新聞夕刊(7月9日付、大阪本社版)に、「“まさか”が実現」の見出しが躍った。記事の冒頭には「大阪の有権者だけでなく、全国の人たちをアッといわせた」とある。
白浜 中央からは見えない、大阪から起きた時代の変化を、現場の記者が率直に表現したものだろう。
石川博崇・関西青年会議議長 まさに青年の熱と力で時代を切り開いた瞬間だった。私も一昨年の参院選大阪選挙区で、トップ当選させていただき56年以来の“伝統の議席”を守ることができた。党員、支持者の皆さまのご奮闘があったればこそと感謝している。