常陽新聞<最終号>
 8月31日朝、届けられた常陽新聞。一面に“自己破産申し立て廃刊に”という文字が、いきなり目に飛び込んできました。「常陽新聞」を発行する常陽新聞新社は30日、売上げ不振を理由に水戸地裁土浦支部に破産を申し立てたました。
 31日付けの関野一郎社長の記事によると「地元経済圏の中での既存広告主の相対的退潮など環境の変化も当社の事業全体に大きく影響を与えました。新聞社として社会の変化に対応できなかったことが、業績の衰退につながった」「給与の遅配で従業員に退職を余儀なくさせてしまいました。従業員の減少は、取材編集力の低下、営業社員の減少と高齢化による硬直化を招き、収益に直接響いてしまいました」と、廃刊の理由を説明しています。
 負債総額は1億2000万円。その内訳は、輪転機の未払いリース料、社員の未払い賃金、信用保証協会債権回収の未払い、新聞発行材料の買掛金などです。従業員は現在、パート、嘱託を含め31人で、全員解雇されます。
 常陽新聞は6ページ建ての日刊紙。1943年に「豆日刊土浦」としてスタートし、50年に「常陽新聞」と改題。60年代半ばのピーク時に1万部ほどあった発行部数は近年、5000部を切っていました。
 地元に特化した記事を提供している新聞でしたが、内容の陳腐は否みませんでした。スタッフ不足から掘り下げた取材記事はほとんど無く、記者クラブ発表の記事や通信社や3大紙系の転載記事が多いのが気になりました。
 常陽新聞には“社説”欄もなく、地元の話題への主張性も乏しかったのも事実です。逆に時折、週刊誌バリのセンセーショナルな記事も出ることにも違和感がありました。選挙活動や企業広告を特集記事と称して、市民を提供することにも抵抗を感じていました。数え上げれば、廃刊にいたる原因はいくつも指摘できます。
 しかし、そんな常陽新聞を20年間近く取り続けています。
 多くの記者や社員は、最後まで真剣に報道人としての勤めを果たしてくれました。最後の日の紙面は、社長の廃刊の報告以外は、全く日常の延長の記事で埋められていました。そのことが逆に、一つの地方紙の終わりにふさわしい、そんな思いがします。これで、茨城の地方紙は“茨城新聞”一紙になってしまいました。淋しい限りです。 

自己破産申し立て廃刊に
常陽新聞新社社長関野一郎

 常陽新聞新社は30日、水戸地方裁判所土浦支部に自己破産の申し立てを行いました。31日付の紙面を最後に廃刊とさせていただきます。長年ご愛読いただきました読者の皆様、取引先の皆様はじめ株主様には多大なご迷惑をお掛けすることになりましたことを、心からお詫び申し上げます。1948年11月に「豆日刊土浦」として土浦の地に創刊して以来、65年の歴史に幕を引くことは断腸の思いであります。しかし、当社の現状から判断して、この決断をすることが最良の道であると考えました。
 常陽新聞新社が旧社から営業を引き継ぎ、今年で10年になります。その間も決して良い業績とはいえず、2009年には新たな株主の支援により一息つけたのも束の間で、経済の低迷を受け、その地元経済圏の中での既存広告主の相対的退潮など環境の変化も当社の事業全体に大きく影響を与えました。それ以前に、新聞社として社会の変化に対応できなかったことが、業績の衰退につながったと認識しております。
 銀行との取引が絶えたこの4年間は、給与の遅配で従業員に退職を余儀なくさせてしまいました。遅配に耐えてもらった従業員はもちろんですが、個人の事情により泣く泣く退職に追い込んでしまった人も少なくなく、申し訳ない思いです。従業員の減少は、取材編集力の低下、営業社員の減少と高齢化による硬直化を招き、収益に直接響いてしまいました。
 慢性化した月々の資金不足により、取引先への月々の支払いを賄うのが精いっぱいの状態が続いていました。給料遅配の解決には、国の保証制度を頼るしかないと判断しました。
以上のことから業務の遂行は困難といえる状況に至っており、媒体の発行維持は困難であるとの判断にいたりました。
 負債総額は約1億2000万円になります。春先より複数の専門家に相談をして意見を聞いてきました。
 意見を要約すれば、非常に厳しい危機的状況との判断でした。弁護士にも伺いましたところ、破産しかとるべき方法はないとの話をいただきました。今後は、弁護士や破産管財人の指示に従って対処していきます。
 最後に、ご迷惑をお掛けしました多くの皆様に、もう一度お詫びを申し上げます。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

地元密着の新聞廃刊、非常に残念
 土浦市の中川清市長は「この度、常陽新聞新社の破産に伴い、常陽新聞が65年の歴史に幕を閉じ廃刊になるとお聞きし、大変驚いております。地元に密着した歴史ある新聞がなくなることは、非常に残念でなりません」とのコメントを発表した。