6月17日、井手よしひろ県議はJR大みか駅前で県議会報告を行いました。
集団的自衛権の行使容認をめぐる与党協議に触れて、「自衛権行使の要件は厳格にすべき」だと訴えました。さらに、「閣議決定による解釈変更には国民的議論が不足している」と強調しました。
その上で、公明党は「閣内に止まり安倍政権の暴走に歯止めを掛けるべき」と主張しました。

安倍晋三首相が進める集団的自衛権の行使容認をめぐり議論で、6月13日、自民、公明の与党両党は、「安全保障法制整備に関する協議会」の第6回会合を開催しました。
席上、自民党の高村正彦副総裁が、「国民の生命などが根底から覆されるおそれがある場合」は、日本が武力攻撃を受けていなくても自衛権行使が認められるとした、自衛権発動の「新3要件」を私案として提示しました。この日の協議会では私案について議論はせずに、それぞれ党内に持ち帰った。
政府がこれまで示してきた憲法上認められる自衛権発動の要件は、(1)わが国に対する急迫不正の侵害があること、(2)これを排除するために他の適当な手段がないこと、(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと―の3つで、個別的自衛権の枠内にとどまります。(1972年の政府見解を参照)
一方、高村私案は、第1の要件に「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」と、『他国に対する武力攻撃』以下の文言が加えられたことに特徴があります。
井手よしひろ県議は、この『おそれ』との文言では、要件として明確性に欠け、自衛権の発動に制限が効かなくなるのではないかと懸念しています。
1972年の政府見解「集団的自衛権と憲法との関係」について
憲法第9条の解釈に関する政府見解がまとまった形で示されているものには、1972年、81年、2004年の国会答弁や答弁書があります。
これまでの政府見解は、全て1972年の資料がベースになっていることを、今年5月22日の参院外交防衛委員会で、横畠裕介内閣法制局長官が認めています。
72年見解は短い文章で、三つの段落で成り立ち、極めて論理的に述べられています。なお、集団的自衛権という言葉はこの中で3回出てきますが、全て頭に「いわゆる」という修飾語が付いています。
第1段落は、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位」と定義しています。その上で、日本が国際法上はその権利を有しているとしています。
第2段落は、集団的自衛権が国際法上は認められているが国権の発動としての行使は許されない、すなわち、憲法上は行使できないというそれまでの政府見解の結論を要約しています。その論理的な理由を「次のような考え方」だと述べ、第3段落につなげています。そのため、72年見解の主題は全て第3段落にあります。
第3段落は三つの文章で成り立っています。第1文では憲法第9条の第1項で戦争放棄、第2項で戦力不保持を規定していると確認。一方、憲法前文で平和的生存権、第13条で幸福追求権を定めており、結論として「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置」は禁じられていないと明記しています。
さらに、重要なのはその次の第2文です。自衛の措置は無制限に認めているのではないと解した上で、自衛権行使は(1)あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し(2)国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置―として、はじめて容認されると述べています。
その上で第3文は、武力行使を行うことが許されるのは、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とし、他国防衛に当たる集団的自衛権の行使は許されないという論理的な帰結を示しています。
席上、自民党の高村正彦副総裁が、「国民の生命などが根底から覆されるおそれがある場合」は、日本が武力攻撃を受けていなくても自衛権行使が認められるとした、自衛権発動の「新3要件」を私案として提示しました。この日の協議会では私案について議論はせずに、それぞれ党内に持ち帰った。
政府がこれまで示してきた憲法上認められる自衛権発動の要件は、(1)わが国に対する急迫不正の侵害があること、(2)これを排除するために他の適当な手段がないこと、(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと―の3つで、個別的自衛権の枠内にとどまります。(1972年の政府見解を参照)
一方、高村私案は、第1の要件に「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」と、『他国に対する武力攻撃』以下の文言が加えられたことに特徴があります。
井手よしひろ県議は、この『おそれ』との文言では、要件として明確性に欠け、自衛権の発動に制限が効かなくなるのではないかと懸念しています。
自衛権発動の「新3要件」(高村私案)の全文
憲法第9条の下において認められる「武力の行使」については、
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
(2)これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
という三要件に該当する場合に限られると解する。
憲法第9条の下において認められる「武力の行使」については、
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
(2)これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
という三要件に該当する場合に限られると解する。
1972年の政府見解「集団的自衛権と憲法との関係」について
憲法第9条の解釈に関する政府見解がまとまった形で示されているものには、1972年、81年、2004年の国会答弁や答弁書があります。
これまでの政府見解は、全て1972年の資料がベースになっていることを、今年5月22日の参院外交防衛委員会で、横畠裕介内閣法制局長官が認めています。
72年見解は短い文章で、三つの段落で成り立ち、極めて論理的に述べられています。なお、集団的自衛権という言葉はこの中で3回出てきますが、全て頭に「いわゆる」という修飾語が付いています。
第1段落は、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位」と定義しています。その上で、日本が国際法上はその権利を有しているとしています。
第2段落は、集団的自衛権が国際法上は認められているが国権の発動としての行使は許されない、すなわち、憲法上は行使できないというそれまでの政府見解の結論を要約しています。その論理的な理由を「次のような考え方」だと述べ、第3段落につなげています。そのため、72年見解の主題は全て第3段落にあります。
第3段落は三つの文章で成り立っています。第1文では憲法第9条の第1項で戦争放棄、第2項で戦力不保持を規定していると確認。一方、憲法前文で平和的生存権、第13条で幸福追求権を定めており、結論として「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置」は禁じられていないと明記しています。
さらに、重要なのはその次の第2文です。自衛の措置は無制限に認めているのではないと解した上で、自衛権行使は(1)あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し(2)国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置―として、はじめて容認されると述べています。
その上で第3文は、武力行使を行うことが許されるのは、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とし、他国防衛に当たる集団的自衛権の行使は許されないという論理的な帰結を示しています。
1972年政府見解の全文
集団的自衛権と憲法との関係―内閣法制局
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条(C)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
集団的自衛権と憲法との関係―内閣法制局
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条(C)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。