北茨城被災地<平潟町> 2011年3月11日、「あの日を、あなたを忘れない」――。東日本大震災から4年目の節目を迎えました。茨城県内では、津波で甚大な被害を受けた北茨城市で、県と北茨城市による合同追悼・復興祈念式典が開かれました。真っ青な青空が広がるものの、冷たい海風が吹き抜ける北茨城市大津漁港の岸壁で、式典は厳粛に行われました。式典には遺族や県、市町村関係者ら約1000人が参列し、発生時刻の午後2時46分に全員で黙とうを捧げました。
 地元北茨城市の豊田稔市長の、「すべてを奪った海ではあるが、安寧で豊穣の海であることを願ってやまない。必ずや震災から復興し、希望の持てる郷土北茨城を創生する」との式辞が胸を打ちました。
 
 この4年間、被災した多くの住民は、深い悲しみや苦しみを乗り越えて、復興に取り組まれました。私ども公明党は「人間の復興」の旗を握りしめ、現場の最前線を走り抜き、目の前の一人ひとりに寄り添いながら、厳しい現実と格闘してきました。このブログでは、この4年間の復興の戦いを省みるとともに、その課題をまとめておきたいと思います。

『生活:被災者に寄り添い国、県を動かす』

 「これは、あまりにも酷じゃないのか!」――。2012年3月の国会審議。公明党東日本大震災復興対策本部事務局長(当時)の石田祝稔衆院議員は、民主党政権に怒気を帯びた声で迫りました。党宮城県本部が実施した仮設住宅入居者へのアンケート結果を基に、風呂の追いだき機能の必要性を訴えたものの、「お金が掛かる」「対応が困難」と、当時の閣僚が心ない答弁に終始したからです。
 公明党には被災者に寄り添う使命がある。市町村に、県に「追いだき追加」を求め、国会の代表質問でも取り上げました。被災地の思いを背負った公明議員の気迫と執念に、最後は政府が「来年は進めるよう努力したい」と回答。12年4月に設置方針が発表されました。
 未曾有の大災害に混乱を極める民主党政権。これに対し、復興の支柱である東日本大震災復興基本法(11年6月成立)に魂を込めたのも公明党でした。現場の声を基に復興庁の設置、復興債の発行、復興特区の創設を盛り込みました。
 「本当に助かる!」と喜ばれた追いだき機能付きの風呂は、今も仮設入居者の体と心を温め続けています。ただ、4年間で蓄積した疲労までは癒やせないのも事実です。公明党は85%が着手段階に入った災害公営住宅の早期実現など、住まいの確保に全力を挙げていく決意です。
東日本大震災の被災地<北茨城市磯原> 茨城県でも、現場の声を行政に届けるために必死で戦いました。
 東日本大震災による被災箇所を改修工事した県内住宅は、13万1300戸で東北三県の被害を凌駕し国内最多となりました。こうした住宅被害がありながら、県内では民間のアパートなどを仮設住宅の代わりに借り上げる見なし仮設についても、市町村の準備が遅れました。災害救助法で位置づけられている「住宅応急修理制度」を活用できた市町村はわずか5市にとどまりました(潮来市601件、神栖市28件、鹿嶋市8件、鉾田市2件、稲敷市1件)。行政全体が大きな被害を受け、危機管理体制が不十分であっため、被災者の生活再建への手が遅れたことは事実です。公明党は43自治体の市町村議員、県議会議員がそのネットワークを駆使して、市町村の災害復旧への体制づくりに全力で取り組みました。

『なりわい:中小企業の復興支援』

 被災者の生活に直結する「なりわい」の再生は、復興の原動力です。被災した中小企業の再建を後押しするために、公明党が力を注いだのが、施設や設備の復旧・整備を支援する「中小企業グループ補助金」の拡充。これまで8道県の605グループ、1万416社への交付が決定。地域の産業再建と雇用確保に大きな効果を挙げています。
 中小企業が製造再開に必要な施設や設備、小売店が必要な添付などの再建のために、必要な費用を4分の3まで助成できる有利な仕組みです。制度創設当初、限られた予算に応募が殺到し、採用されないケースが相次ぎました。必死に立ち上がろうとする経営者の思いに応えるため、12年10月には井上義久幹事長が被災地の県議らと中小企業庁長官に補助金の改善を要望。こうした動きが後押しとなり、予算増額や制度充実が実現しました。
 制度開始時は、グループ補助金の対象地域に指定されていなかった茨城県。9月の衆議院予算委員委員会で、県本部代表を務める石井啓一政調会長は「茨城も被災地です。東北3県だけではなく、被災したすべての市町村を対象にするように」と、当時の野田総理(民主党)に鋭く迫りました。この質問がきっかけとなり、その結果、茨城県内では通算で1258社、195億7800万円の補助が中小企業のために交付されました。
 資材価格の高騰、人手不足に風評被害。今も県内産業は課題が山積しています。公明党の闘いに終わりはありません。

『忘れられた被災地、低認知被災地いばらきの戦い』

 ”低認知被災地”という聞きな慣れない言葉が、全国ネットのテレビに登場したのは、震災から4年経った3月11日付のNHK朝の看板番組「あさイチ」でした。NHKのホームページよると「いま茨城千葉両県の被災地に共通の問題として浮上しているのが「低認知」。東北地方に比べて、被害の報道量が少ないため、ボランティアや義援金に差が生まれ、そのことが復興の遅れにつながっているのではないか、検証する研究も始まろうとしていました。現地の状況と、地域をよみがえらせようと懸命に努力する人々を取材、復興のために今なにが必要か考えました」とあります。
 「低認知被災地」について現場で研究に取り組んでいる茨城大学の原口弥生教授は論文の中で、「「低認知被災地」とは、ある地域の被災状況が、見方によっては社会からより高い関心を受けるのが妥当と思われる状況にありながら、その被災状況が十分に社会的認知・承認を受けていない状況を示す。「低認知被災地」とは、ある地域の被災状況への社会的関心と社会的承認の欠如を示唆するタームであり、より積極的にはその地域への社会的・制度的対応を暗に要求するものでもある。いわゆる激甚被災地ではないために、被災や被害の証明がより困難な状況にあり、問題の社会的構築の重要性が増す地域と言えよう」と、低認知被災地を定義しています。(市民運動による政治的機会の形成とその課題─低認知被災地における問題構築─2013、『平和研究』第40号、 pp.9-30)
 「低認知被災地」という言葉は、現に被災した茨城県民にとって余り心地よい言葉ではありません。しかし、東日本大震災の被害、それに続く福島第1原発事故の被害への対応を考える場合には、非常に重要な視点です。
 具体的にみてみると、液状化対策への対応がありました。県内44市町村のうち、36市町村で液状化の被害が発生しました。
 こうした液状化対策も市町村ごとに対応が大きく異なりました。1つは、全国で最も液状化対策工事が進んでいる潮来市。およそ2年前から「地下水位低下工法」という工法を用いた工事が行われ、完成まであと1年のところまで来ています。震災から4年たった今が、まさに工事のピークで、町中のありとあらゆる道路で大規模な工事が行われています。一方、隣接する鹿嶋市では未だに工事に着手できていません。復興集中期間の平成27年度中の工事完了はほとんど不可能です。液状化対策工事の実施を断念した市町村もあります。ひたちなか市は、一戸あたりにかかる個人負担が140万円と高額で、地区の高齢化も進んでいることから、住民のほとんどが対策工事の実施に合意しませんでした。
 津波被害に比べて、液状化被害への国の対応は非常に遅れているいわざるを得ません。「低認知被災地」であることがその一つの要因になっています。
 さらに、茨城大学の研究でも指摘されているように、福島第1原発事故への国の対応には大きな疑問がのこっています。福島県内の18歳未満の子どもたちの医療費は、国費の助成を受けて無料化されています。福島県内の市町村より放射線量の高い地域が、茨城県内にはまだら模様に分布しています。県毎の指定には異論があります。実態として空間線量の高い地域(市町村)は、医療費助成の対象にすべきでした。
 同じように、放射性ヨウ素の内部被ばくによる小児の甲状腺がんへの対応として、福島県では、子どもたちの健康を長期に見守るために、甲状腺(超音波)検査を18歳未満の子ども全員に定期的に実施しています。この健康調査も茨城県は対象になりませんでした。
 私ども公明党こそ、地方議員と国会議員のネットワークで、こうした「低認知被災地」の弊害を克服できる政党だと確信しています。これからも地方の情報、被災者の生の声を全国に発信し、風評と風化という2つの風に立ち向かってまいります。