11月30日、井手よしひろ県議は『藻谷浩介と行く飯館・南相馬』バス講演ツアーに参加しました。
福島第1原発事故の影響を受け、今なお呻吟する福島県の被災地を、郡山〜二本松(浪江町役場〜大堀相馬焼協同組合)〜福島大学〜飯館〜南相馬と、里山資本主義の提唱者・藻谷浩介氏の講演を聞きながら視察するツアーです。
飯館村と南相馬市は、福島第一原発事故に伴う放射性物質の放出・拡散によって大きな被害を受け、今もって飯館村の全域と南相馬市の半ばが、帰宅困難区域、居住制限区域などの避難指示区域となっています。 震災と原発事故からの復興にかける現地の様子を視察し、それに尽力されている様々な立場の方々から、直接お話を伺うことができました。
最初に伺ったのが浪江町役場。福島第一原発事故を受けて役場機能が二本松市に移っています。住民が戻っていない街に、多くの町民は住民票を置いたままにしています。特に、請戸地区は東日本大震災の津波に襲われ、154人の犠牲者を出しました。その上に、福島第1原発事故が追い打ちを掛け、生存者も避難を強いられました。
馬場有(たもつ)町長は、「第1原発がある双葉と大熊には多額の電源三法交付金が入るなど原発の恩恵があったけれど浪江は何の恩恵も受けていない。もらったのは放射能だけ」「全国に拡散・避難している住民のきずなを強めないといけない。各避難所への情報伝達と仮設住宅の自治組織の強化をする。タブレット端末などの配布で住民との交流を深めたい」と語りました。
次に訪れたのが浪江町の大堀相馬焼協同組合二本松工房。大堀相馬焼協同組合は、原発事故により避難を余儀なくされ産地での作陶ができなくなり営業停止になりました。二本松市の協力を得て二本松市小沢工業団地に「陶芸の杜 おおぼり 二本松工房」として再開しました。
新たな施設は、展示室・事務室・会議室・陶芸教室・ろくろ場・釉薬かけ物置・仮眠室・窯場などを備えた床面積約720m2の仮設工房です。
ここで再開することにより、伝統的工芸品である「大堀相馬焼」の維持、継承と離散した窯元、浪江町民をつなぐ拠点、ふるさとを想ういこいの場の役割も果たすことを期待して活動してます。長い歴史の中で磨き上げられてきた地域の工芸品。原発被害はその歴史と文化を破壊してしまいました。懸命に「大堀相馬焼」を守ろうとする方々の意気に触れました。
昼食は福島大学で、中井勝己学長とともにいただきました。
平成23年から福島大学は、「うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)」を中心に被災者・被災地域の支援活動を展開してきています。さらに、平成25年度に新たに「環境放射能研究所(IER)」を立ち上げました。長期にわたる放射能汚染の自然環境への影響を調査研究するもので、海外の研究者たちも福島大学に集まってきています。
また、平成25年度文部科学省「地(知)の拠点整備事業」(COC事業)において、福島大学の「原子力災害からの地域再生をめざす『ふくしま未来学』の展開」が採択されました。福島大学は復興の担い手である若者の人材育成のために、「ふくしま未来学」の教育プログラムを体系化し、被災地復興に貢献できる実践的教育に取り組んできています。
特に注目したいのが、原子力災害によって引き起こされた地域課題や、元々地域社会が抱えていた課題を実践的に学習する科目群を配置した特修プログラムが「むらの大学」です。「むらの大学」では、夏休み2週間のフィールドワークをメインとし、住民への聞き取り、地域課題を解決するプランニングを行い、住民と共に学びあう場の創出を行っています。
全国から福島の復興のために、若い英知が結集している姿が頼もしく思えました。
昼食ののち、全村避難を強いられた飯館村の菅野典雄村長を訪ねました。菅野村長は、自らに村政運営を淡々と語りました。
飯館村では「までいライフ」を進めてきました。「までい」とは、「手間暇を惜しまず」「心を込めて」「丁寧に」「慎ましく」といった意味の方言です。本当は「スローライフ」をキャッチフレーズに使おうと思いましたが、村民にはあまり馴染みませんでした。そこで「までい」に置き換えたところ絶妙にマッチし、あっという間に住民に浸透しました。
災害が起こると、普通、住民たちは力を合わせて、復旧に向けてがんばる。心を一つにして、同じ方向を向いて動き出すものです。しかし、放射能はまったく逆なんです。例えば、もともと住んでいた家に戻るかどうかは、夫と妻、若者とお年寄り、男と女、放射線量が高いところに住んでいる人と低いところに住んでいる人、それぞれの立場で皆、心が離れて逆を向いてしまう。これが原発被害の特殊性なんですよ。恐怖の感じ方がバラバラなんです。線量の高低、補償金の多寡などで、住民の心がバラバラになるんです。
放射能というのは、マイナスからのスタートですよ。心を合わせるというスタート地点のずっと前から取り組まなくてはいけない。ゼロに向かって世代や性別、不安、生活苦を乗り越えなければならないのです。
それでも、私は原発事故を契機に、「までい」ライフ実現を、またこの村でめざしています。
阿武隈山地を超えて、南相馬市に入りました。半谷栄寿さんが創設した「南相馬ソーラーアグリーパーク」を視察しました。半谷さんは、大震災前の2010年6月までは東電の執行役員。震災後「地元の子供たちのためになる仕組みつくりたい」と、立ち上げたのがこの施設です。
津波被災地(市有地)を活用し、太陽光発電所と植物工場を舞台とした体験学習を通して、地元の子供たちの成長を支援し、全国の人々との交流を行う復興拠点です。
風評被害を克服し、農業・工業・観光業の復活、雇用の創出、ひいては南相馬・福島全体の復興に貢献することを目的とし、計画を進めてきました。また、この事業は南相馬市再生可能エネルギー推進ビジョンにも位置づけられています。
半谷さんの次代を担う若き人材を福島から育てようという熱い情熱に感動しました。
最後は、南相馬市のホテルで桜井勝延市長の講演を伺いました。桜井市長は一言でいえば「気骨の人」。畜産業を営み、その牛たちを原発事故ですべて処分しなくてはいけなかった無念さ、国や県の現場を軽視する災害対応への憤り。その言葉には重みを感じます。
原発再稼働への言は、特に辛辣を極めます。今年8月の川内原発1号機の再稼働に際しての要望書を以下、引用します。
安倍内閣総理大臣は「福島の復興なくして日本の再生なし」と明言したが、福島第一原子力発電所事故が収束していない中での再稼働は、言語道断であり、認めることは出来ない。 今、改めて、脱原発を訴える重要性を強く深く認識している。
当市では、原発事故後、避難を余儀なくされ現在まで478人の貴い命が失われた。事故後4年を経過した今もなお、約1万9千人の市民が避難を余儀なくさせられている。避難生活が何も変わらない中での原発の再稼働はフクシマを冒涜するとともに、避難者に不安をもたらし、生きる希望を失わせることになるだけだ。
本年3月25日に当市は、「脱原発都市」を宣言した。万が一原発事故が起きたら、また、先の見えない避難生活を強いられ、家族が引き裂かれ、生業を失い、地域を失うことになる。このような悲劇が二度と繰り返されるようなことがあっては ならない。
南相馬市は、国に対し、原発依存を脱却し再生可能エネルギーを中心としたエネルギー政策へ転換することを強く要望する。