11月27日公明党の市川雄一特別顧問は、東京・内幸町の日本記者クラブで、「中道」をテーマに講演しました。
公明党は、1989年の参院選で、結果として参院でのキャスチングボート(決定票)を握り、自立した独自の判断を迫られ、第3極の独自性を発揮した公明党が、社会、公明、民社(社公民)路線と決別し、米ソ冷戦の終結、湾岸戦争の勃発による、(1)90億ドル支援問題の解決(2)PKO協力法の制定を経て、日本の政治の枠組みを大きく変えました。これが細川政権を生み、政治改革の実現で、政権交代時代の土台を築きました。
日本の近代政治史に中で、公明党の決断が果たした歴史的意義は大きいと思います。公明党が掲げる「中道政治」は、日本政治に「対立」ではなく「統合」をもたらしました。
市川特別顧問の講演要旨を、公明新聞(2015年12月3日付け)の記事よりご紹介します。
「対立」から「統合」への指標/公明党が政権交代時代の土台つくる
1989年の参院選で、その直前に金銭スキャンダルが発覚し、公明党は大敗したが、社会党の「マドンナ旋風」があり、(自民党が過半数を割り公明党が)キャスチングボート(決定票)を握った。意図して獲得したものではないが、責任は重い。野党であって、与党的な責任を強く自覚した。この考え方が(「社公民」路線転換の)スタートだった。
社公民の枠に縛られていては、キャスチングボートを持つ公明党が身動きできない。党再建の問題もある。そこで路線変更を考えた。そして(公明党は)三極(自民党、社会党、中道=公明党)の一極として、独自の判断で活動する路線を決めた。
「中道」とは、政治理念としては「生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義」。政治路線としては「日本の政治の“座標軸”の役割をめざす」。具体的には(1)左右の揺れ(や偏ぱ)を防ぎ、政治の安定に貢献する(2)不毛な対決を避け、国民的合意形成に貢献する(3)諸課題に対して新しい解決策を提案する――という考え方だ。
キャスチングボートを握り、冷戦の終結、湾岸戦争の勃発、90億ドル支援、PKO協力法制定という過程の中で、公明党がこの考え方をどう適用したか。
解決策を提案し合意形成/90億ドル支援、PKO協力法 日本の国際的孤立を防ぐ
私が初当選した1976年ごろ、野党陣営は社会党を軸として自民党に対抗する政権をつくろうとしていたが、その割には政権与党に堪える政策体系をつくろうとする意欲を持った党は公明党を除いて少なかった。私は党の安全保障部会長を命じられ、公明党は党内議論に4年をかけ、81年に安全保障政策を転換した。自衛隊を「合憲」に、日米安保条約を「容認・存続」に党大会で変更した。
米ソ冷戦が終結後、90年8月、イラクがクウェートに侵攻。国連安保理決議の下、91年1月17日に多国籍軍がイラクに武力行使をする湾岸戦争が勃発。日本政府は、1月19日に90億ドル支援の要請を受け入れることを決めたが、社会党も共産党も「戦費協力反対」と一刀両断して反対した。
ここで、キャスチングボートを握った公明党が反対すればつぶれる。党内も世論も、賛否が二分していた。マスコミは「悩む公明党、悩まぬ社会党」と報じたが、党執行部は賛成を決めており、日本の国際的孤立化を避けたいと決断していた。国会議員全員集合の、十数回の質疑応答で、党内的なコンセンサスを形成した。
賛成する条件の一つが「武器・弾薬に使用しない」。米国のアマコスト駐日大使と会い、ブッシュ大統領に理解してもらえるようお願いした。内閣、外務省も働き掛けていたと思う。米国の返事は早かった。ブッシュ大統領は2月6日、「日本には平和憲法がある。軍事的貢献を期待すべきではない」と言った。
これがおそらく答えだったのだろう。この時に日本は賛成が多くなった。米国・ニューヨークタイムズ紙は、「少数政党である公明党が日本の現代史上初めて、自民党以外の政党として日本の政治の決定について、中心的役割を果たすことになった」とコメントした。
公明党は、1989年の参院選で、結果として参院でのキャスチングボート(決定票)を握り、自立した独自の判断を迫られ、第3極の独自性を発揮した公明党が、社会、公明、民社(社公民)路線と決別し、米ソ冷戦の終結、湾岸戦争の勃発による、(1)90億ドル支援問題の解決(2)PKO協力法の制定を経て、日本の政治の枠組みを大きく変えました。これが細川政権を生み、政治改革の実現で、政権交代時代の土台を築きました。
日本の近代政治史に中で、公明党の決断が果たした歴史的意義は大きいと思います。公明党が掲げる「中道政治」は、日本政治に「対立」ではなく「統合」をもたらしました。
市川特別顧問の講演要旨を、公明新聞(2015年12月3日付け)の記事よりご紹介します。
「対立」から「統合」への指標/公明党が政権交代時代の土台つくる
1989年の参院選で、その直前に金銭スキャンダルが発覚し、公明党は大敗したが、社会党の「マドンナ旋風」があり、(自民党が過半数を割り公明党が)キャスチングボート(決定票)を握った。意図して獲得したものではないが、責任は重い。野党であって、与党的な責任を強く自覚した。この考え方が(「社公民」路線転換の)スタートだった。
社公民の枠に縛られていては、キャスチングボートを持つ公明党が身動きできない。党再建の問題もある。そこで路線変更を考えた。そして(公明党は)三極(自民党、社会党、中道=公明党)の一極として、独自の判断で活動する路線を決めた。
「中道」とは、政治理念としては「生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義」。政治路線としては「日本の政治の“座標軸”の役割をめざす」。具体的には(1)左右の揺れ(や偏ぱ)を防ぎ、政治の安定に貢献する(2)不毛な対決を避け、国民的合意形成に貢献する(3)諸課題に対して新しい解決策を提案する――という考え方だ。
キャスチングボートを握り、冷戦の終結、湾岸戦争の勃発、90億ドル支援、PKO協力法制定という過程の中で、公明党がこの考え方をどう適用したか。
解決策を提案し合意形成/90億ドル支援、PKO協力法 日本の国際的孤立を防ぐ
私が初当選した1976年ごろ、野党陣営は社会党を軸として自民党に対抗する政権をつくろうとしていたが、その割には政権与党に堪える政策体系をつくろうとする意欲を持った党は公明党を除いて少なかった。私は党の安全保障部会長を命じられ、公明党は党内議論に4年をかけ、81年に安全保障政策を転換した。自衛隊を「合憲」に、日米安保条約を「容認・存続」に党大会で変更した。
米ソ冷戦が終結後、90年8月、イラクがクウェートに侵攻。国連安保理決議の下、91年1月17日に多国籍軍がイラクに武力行使をする湾岸戦争が勃発。日本政府は、1月19日に90億ドル支援の要請を受け入れることを決めたが、社会党も共産党も「戦費協力反対」と一刀両断して反対した。
ここで、キャスチングボートを握った公明党が反対すればつぶれる。党内も世論も、賛否が二分していた。マスコミは「悩む公明党、悩まぬ社会党」と報じたが、党執行部は賛成を決めており、日本の国際的孤立化を避けたいと決断していた。国会議員全員集合の、十数回の質疑応答で、党内的なコンセンサスを形成した。
賛成する条件の一つが「武器・弾薬に使用しない」。米国のアマコスト駐日大使と会い、ブッシュ大統領に理解してもらえるようお願いした。内閣、外務省も働き掛けていたと思う。米国の返事は早かった。ブッシュ大統領は2月6日、「日本には平和憲法がある。軍事的貢献を期待すべきではない」と言った。
これがおそらく答えだったのだろう。この時に日本は賛成が多くなった。米国・ニューヨークタイムズ紙は、「少数政党である公明党が日本の現代史上初めて、自民党以外の政党として日本の政治の決定について、中心的役割を果たすことになった」とコメントした。
「戦費協力に反対」だとしていれば楽だったかもしれない。しかし、それでは日本の孤立を招きかねない。真っ当な国連決議の下、国連は諸国に協力を呼び掛けている。日本が国連中心主義と言いながら国連に協力しないのは、おかしいのではないか。(公明党は(1)90億ドル支援の使途は武器・弾薬には使わない(2)政府自らの歳出削減で5000億円は増税を圧縮する(3)防衛費を1000億円削減する(4)予算書の書き換え修正を行う――との四つの)条件を出し、それが受け入れられたので賛成した。それも、合意形成をめざす中道的な考え方であると思う。
90億ドル支援の後、1991年11月9日に自公民3党が覚書を交わしたPKO協力法の法制化を行うことになった。91年11月5日、宮沢内閣が発足。武力不行使を前提としたPKO協力法の制定で公明党が果たした重要な役割とは、「PKO五原則」を法律の中に明記させたことだ。これによりPKO五原則に反する自衛隊の海外派遣はできなくなった。内閣の決定と国会の承認で決定されたことで、シビリアンコントロールの実効性を確保したものだ。(PKO法案の審議で)11月27日にいわゆる「自社馴れ合いの強行採決」で混乱し、参院で継続審議となった。
この時、マスコミ各社は一斉に「廃案」「廃案濃厚」と報道。世論は硬化した。この時、民社党は、国会の事前承認が必要だと主張し(法案に)反対し、脱落した。PKF(平和維持隊)も国民によく理解されていなかった。
私は、(PKO派遣に)民社党がどうしても国会の事前承認が必要だと言うならば、PKO五原則を確認する手続きとしての事前承認でどうかと、テレビ番組で発言した。それで民社党からOKだと連絡があり、法案を修正して決着した。
PKFでは、アジア諸国や、国民の理解を得るため、暫定的な凍結期間を置いたらどうかと提案した。その後の自民・公明の交渉で、PKFを法律で凍結し、対処することで決まった。これで世論も劇的に変わり、賛成が多くなった。こうして法案の廃案を防ぎ、PKO協力法成立にこぎ着けた。これも国民的な合意形成をめざす中道的な考え方の二つ目の事例だ。
米ソ冷戦の終結、湾岸戦争勃発、90億ドル支援、PKO協力法制定――日本の国際的孤立を避け、一国平和主義を乗り越える。世界の中で日本がどう生きるかが問われた。左右の揺れを防ぎ、不毛の対決を避け、国民的合意形成に貢献する。新しい提案で課題を解決する。こういう公明党的な「中道」の考え方が政治の実践の中に生かされた事例として申し上げた。
不毛な対決回避し政治改革をリード
細川政権ができる直前、リクルート事件や佐川急便事件があった。政治腐敗をなくし、民主主義の質を高めるにはどうすればよいか――。そのためには競争原理を導入し、政権交代できる選挙制度をつくるしか腐敗はなくせないし、民主主義の質を高めることはできないと考えた。
宮沢内閣は「政治改革をやる」と断言していたが、自民党内の異論に阻まれて断念せざるを得なかった。そして衆院解散までの2週間くらい、宮沢喜一首相は(政治改革の)意欲を示しては後退する。この繰り返しで政局は膠着状態。社会党は執行部が代わったばかりで、解散を要求する難しい政局判断を考えあぐねていると推察した。
公明党が決断するしかない。緊急役員会を開き、解散総選挙を行うべきだとの意思を、党として表明し、記者会見で内閣不信任決議案を提出すべきと訴えた。この発表は大きなインパクトを与え、一気に解散総選挙に流れたのは事実だ。(公明党が政局転換の引き金を引いたのだ)
そして細川政権が誕生する。短命だったが政権交代しやすい選挙制度をつくったことが、今の連立時代、政権交代のある民主主義の実現につながった。
議会制民主主義の核心、生命は政権交代にある。競争原理が働いて腐敗防止になると同時に、それぞれの政党が競い合うことで民主主義の質も上がるのではないか、こう考えていた。ただ、振り返ると、大きな腐敗はなくなったが、民主主義は正常に作用しているかどうか。残念ながら評価を考えあぐねている。
政権交代は「革命」ではない。重要政策の継続性(安全保障とか社会保障)を尊重することは非常に重要だ。政権が代わるたびに外交・防衛政策が大きく変わっては、政治の安定が大きく揺らぎ、他の政策の実現もおぼつかないし、国際社会から信頼を失い、日本外交が立ち行かなくなる。安全保障政策のあり方をめぐり、「55年体制」において与野党が正反対の意見を繰り返してきたが、いまだにその繰り返しが続いている。その意味から、今後も、公明党=中道として、不毛の対決ではなく、国民的合意形成の役割を果たす事が重要であり、強く期待されていると思う。
中道は人間性の洞察に基づく健全な常識
最後に「中道」について、防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛さんが、昨2014年11月7日付の読売新聞で「冷戦終結25年」と題してインタビューを受けている。そのインタビューの終わりの方で、「『中道』の価値観重要」という見出しのもとでこう述べている。
「世界は東西冷戦だったが、日本は国内で冷戦を戦ったと言える。西欧諸国にもマルクス主義者はいたが少数派だった。知識人が二分されたのは日本だけだ」「知識人の中で中道という考え方は人気がなかった。冷戦が終わりマルクス主義の権威は地に落ちたが、相変わらず白黒の二分法の考えで、中道嫌いは今も続いている。中道とは左右を足して2で割った考えではなく、それ自体の独立した価値がある。言い換えれば、人間性の洞察に基づく健全な常識のことだ。21世紀にこそ中道が根付いてほしい」
そこに言う「それ自体の独立した価値」という認識は鋭く、そういうことを話す方はいなかった。保守か革新かというものの考え方に慣れすぎてしまい、「中道それ自体の独立した価値」、それから「21世紀にこそ中道が根付いてほしい」と。佐瀬さんの言葉は、もちろん公明党を意識して話したことではないと思うが、私の胸に強く響いてきた。
質疑応答
――キャスチングボートを握った政党の判断は、その後の党の盛衰を決めると言われる。平和安全法制も盛衰に関わる判断だったと思うが、公明党は今後、節目の判断が必要な時にどう対応していくのか。
市川 公明党は結党以来、中道とは何か、政治の場で中道とはどういう働きをすべきかをずっと考え続けている。(世間的には)左右を足して2で割ってとの考え方が多かったと思うが、「中道それ自体が独立した価値」という見方を誰もしないし、しようとしない。公明党は、この考え方で政治に対処してきた。この認識の違いが大きいのではないか。
今後も、急速に国際情勢が変化する中、党執行部が中道というものを考え続けなければならないし、新しい中道的な物の考え方で対応しなければならない事態に直面するのではないか。
平和安全法制は立憲主義に反するとか一部の憲法学者から違憲だとの批判もあるが、立憲主義とは何かということを深く考えてほしい。平和安全法制について、憲法学者が違憲・合憲を決めるわけではなく、決めるのは違憲審査権を持つ最高裁だ。もし、平和安全法制が違憲だと言うのなら、司法の判断を仰ぐのが立憲主義だ。
平和安全法制について、「戦争法」と一部で批判しているが、間違った認識だ。集団的自衛権行使の限定容認は、自分の国を守るための自衛の措置というのが本質だ。非武装で始まった戦後の日本は、世界最強の軍事力を持つ米国と安全保障条約を結んで日本の平和を守ってきた。今も日本一国では日本を守れない。戦争を事前に止めるには、攻撃すれば手痛いしっぺ返しを受ける、と分からせ、思いとどまらせるしかない。そこで日米安保条約が持つ戦争抑止(事前に戦争を止める)の機能を強化し、戦争を事前に止めるための立法措置が平和安全法制の考え方だ。「戦争法」ではなく、戦争を事前に防ぐ法律だ。意味をはき違えた意見だ。
――市川さんに書いてもらった「疾風に勁草を知る」について。
市川 強い風が吹いて、強い草か、弱い草かが分かる。人生の意に転じて、逆境で倒れる人か、やり抜く人かが分かるという意味だ。願わくば、疾風の中の勁草のごとく生きていきたいと思った。(講演時、時間の制約で割愛した部分があり一部加筆した)
市川雄一公明党特別顧問「戦後70年 語る・問う」(2015.11.27)
90億ドル支援の後、1991年11月9日に自公民3党が覚書を交わしたPKO協力法の法制化を行うことになった。91年11月5日、宮沢内閣が発足。武力不行使を前提としたPKO協力法の制定で公明党が果たした重要な役割とは、「PKO五原則」を法律の中に明記させたことだ。これによりPKO五原則に反する自衛隊の海外派遣はできなくなった。内閣の決定と国会の承認で決定されたことで、シビリアンコントロールの実効性を確保したものだ。(PKO法案の審議で)11月27日にいわゆる「自社馴れ合いの強行採決」で混乱し、参院で継続審議となった。
この時、マスコミ各社は一斉に「廃案」「廃案濃厚」と報道。世論は硬化した。この時、民社党は、国会の事前承認が必要だと主張し(法案に)反対し、脱落した。PKF(平和維持隊)も国民によく理解されていなかった。
私は、(PKO派遣に)民社党がどうしても国会の事前承認が必要だと言うならば、PKO五原則を確認する手続きとしての事前承認でどうかと、テレビ番組で発言した。それで民社党からOKだと連絡があり、法案を修正して決着した。
PKFでは、アジア諸国や、国民の理解を得るため、暫定的な凍結期間を置いたらどうかと提案した。その後の自民・公明の交渉で、PKFを法律で凍結し、対処することで決まった。これで世論も劇的に変わり、賛成が多くなった。こうして法案の廃案を防ぎ、PKO協力法成立にこぎ着けた。これも国民的な合意形成をめざす中道的な考え方の二つ目の事例だ。
米ソ冷戦の終結、湾岸戦争勃発、90億ドル支援、PKO協力法制定――日本の国際的孤立を避け、一国平和主義を乗り越える。世界の中で日本がどう生きるかが問われた。左右の揺れを防ぎ、不毛の対決を避け、国民的合意形成に貢献する。新しい提案で課題を解決する。こういう公明党的な「中道」の考え方が政治の実践の中に生かされた事例として申し上げた。
不毛な対決回避し政治改革をリード
細川政権ができる直前、リクルート事件や佐川急便事件があった。政治腐敗をなくし、民主主義の質を高めるにはどうすればよいか――。そのためには競争原理を導入し、政権交代できる選挙制度をつくるしか腐敗はなくせないし、民主主義の質を高めることはできないと考えた。
宮沢内閣は「政治改革をやる」と断言していたが、自民党内の異論に阻まれて断念せざるを得なかった。そして衆院解散までの2週間くらい、宮沢喜一首相は(政治改革の)意欲を示しては後退する。この繰り返しで政局は膠着状態。社会党は執行部が代わったばかりで、解散を要求する難しい政局判断を考えあぐねていると推察した。
公明党が決断するしかない。緊急役員会を開き、解散総選挙を行うべきだとの意思を、党として表明し、記者会見で内閣不信任決議案を提出すべきと訴えた。この発表は大きなインパクトを与え、一気に解散総選挙に流れたのは事実だ。(公明党が政局転換の引き金を引いたのだ)
そして細川政権が誕生する。短命だったが政権交代しやすい選挙制度をつくったことが、今の連立時代、政権交代のある民主主義の実現につながった。
議会制民主主義の核心、生命は政権交代にある。競争原理が働いて腐敗防止になると同時に、それぞれの政党が競い合うことで民主主義の質も上がるのではないか、こう考えていた。ただ、振り返ると、大きな腐敗はなくなったが、民主主義は正常に作用しているかどうか。残念ながら評価を考えあぐねている。
政権交代は「革命」ではない。重要政策の継続性(安全保障とか社会保障)を尊重することは非常に重要だ。政権が代わるたびに外交・防衛政策が大きく変わっては、政治の安定が大きく揺らぎ、他の政策の実現もおぼつかないし、国際社会から信頼を失い、日本外交が立ち行かなくなる。安全保障政策のあり方をめぐり、「55年体制」において与野党が正反対の意見を繰り返してきたが、いまだにその繰り返しが続いている。その意味から、今後も、公明党=中道として、不毛の対決ではなく、国民的合意形成の役割を果たす事が重要であり、強く期待されていると思う。
中道は人間性の洞察に基づく健全な常識
最後に「中道」について、防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛さんが、昨2014年11月7日付の読売新聞で「冷戦終結25年」と題してインタビューを受けている。そのインタビューの終わりの方で、「『中道』の価値観重要」という見出しのもとでこう述べている。
「世界は東西冷戦だったが、日本は国内で冷戦を戦ったと言える。西欧諸国にもマルクス主義者はいたが少数派だった。知識人が二分されたのは日本だけだ」「知識人の中で中道という考え方は人気がなかった。冷戦が終わりマルクス主義の権威は地に落ちたが、相変わらず白黒の二分法の考えで、中道嫌いは今も続いている。中道とは左右を足して2で割った考えではなく、それ自体の独立した価値がある。言い換えれば、人間性の洞察に基づく健全な常識のことだ。21世紀にこそ中道が根付いてほしい」
そこに言う「それ自体の独立した価値」という認識は鋭く、そういうことを話す方はいなかった。保守か革新かというものの考え方に慣れすぎてしまい、「中道それ自体の独立した価値」、それから「21世紀にこそ中道が根付いてほしい」と。佐瀬さんの言葉は、もちろん公明党を意識して話したことではないと思うが、私の胸に強く響いてきた。
質疑応答
――キャスチングボートを握った政党の判断は、その後の党の盛衰を決めると言われる。平和安全法制も盛衰に関わる判断だったと思うが、公明党は今後、節目の判断が必要な時にどう対応していくのか。
市川 公明党は結党以来、中道とは何か、政治の場で中道とはどういう働きをすべきかをずっと考え続けている。(世間的には)左右を足して2で割ってとの考え方が多かったと思うが、「中道それ自体が独立した価値」という見方を誰もしないし、しようとしない。公明党は、この考え方で政治に対処してきた。この認識の違いが大きいのではないか。
今後も、急速に国際情勢が変化する中、党執行部が中道というものを考え続けなければならないし、新しい中道的な物の考え方で対応しなければならない事態に直面するのではないか。
平和安全法制は立憲主義に反するとか一部の憲法学者から違憲だとの批判もあるが、立憲主義とは何かということを深く考えてほしい。平和安全法制について、憲法学者が違憲・合憲を決めるわけではなく、決めるのは違憲審査権を持つ最高裁だ。もし、平和安全法制が違憲だと言うのなら、司法の判断を仰ぐのが立憲主義だ。
平和安全法制について、「戦争法」と一部で批判しているが、間違った認識だ。集団的自衛権行使の限定容認は、自分の国を守るための自衛の措置というのが本質だ。非武装で始まった戦後の日本は、世界最強の軍事力を持つ米国と安全保障条約を結んで日本の平和を守ってきた。今も日本一国では日本を守れない。戦争を事前に止めるには、攻撃すれば手痛いしっぺ返しを受ける、と分からせ、思いとどまらせるしかない。そこで日米安保条約が持つ戦争抑止(事前に戦争を止める)の機能を強化し、戦争を事前に止めるための立法措置が平和安全法制の考え方だ。「戦争法」ではなく、戦争を事前に防ぐ法律だ。意味をはき違えた意見だ。
――市川さんに書いてもらった「疾風に勁草を知る」について。
市川 強い風が吹いて、強い草か、弱い草かが分かる。人生の意に転じて、逆境で倒れる人か、やり抜く人かが分かるという意味だ。願わくば、疾風の中の勁草のごとく生きていきたいと思った。(講演時、時間の制約で割愛した部分があり一部加筆した)
市川雄一公明党特別顧問「戦後70年 語る・問う」(2015.11.27)