足立寛作さんの選挙ポスター
 私が「土浦に若くて、すごく実力ある県会議員がいる」と初めて聞いたのは、大学生の時でした。
 ラガーマンのユニホームや、つくばりんりんロードを疾走するサイクリング姿など、選挙のリーフレットの鮮やかな印象が今でも鮮明に残っています。
 茨城県議会議員を通算9期務めた足立寛作さんが、3月25日、72歳の天寿を全うしました。
 平成6年の12月の選挙で初当選した際、選挙の翌々日には足立さんとともに霞ヶ浦の環境問題の調査に出かけました。 私が38歳、足立さんが50歳の時です。
 選挙の疲れも取れない中、冷たい霞ヶ浦の風に吹かれてボートに乗ったその記憶は、生涯忘れられないでしょう。「なんてタフな人なんだろう」と思いました。
 そして翌年、土浦市長選挙に立候補。多くの土浦市民の皆様から促され、党籍を離れての挑戦でした。
 私も約1ヵ月土浦に泊まり込んで、一緒に戦わせていただきました。足立さんの周りにいる佐賀純一先生など、素晴らしい仲間の皆様に出会うこともできました。残念な結果とはなりましたが、足立さんの一人の人を思う気持ち、郷土土浦を愛する心情の強さを実感することができました。
 平成10年に返り咲き、以来、県議会議員として12年、一緒に仕事をさせていただきました。
 昨日の通夜、今日の告別式と参列し、感謝のお題目をあげさせていただきました。暫し、ゆっくりとお休みください。ありがとうございました。(合掌)
小町100年の恋
足立寛作(あだち・かんさく)
昭和19年3月9日生まれ、平成28年3月25日没。享年72歳。
 昭和34年、土浦の地で創価学会に入会。土浦3中、土浦1高を経て茨城大学を卒業しました。卒業後、公明党本部に入社。創価学会の青年部の活動では、中野区の男子部の責任者を務め、昭和47年2月の中野兄弟会発足の実行委員長を務めました。
 代議士秘書を経験し、昭和49年12月に行われた茨城県議選土浦選挙区に、弱冠30歳の若さで初挑戦、見事に当選を果たしました。以来9期連続で定数3の大激戦の中、公明党の議席を守り抜きました。平成7年10月には、多くの市民から要請され土浦市長選に挑戦するも惜敗しました。平成11年にはトップ当選で県議に返り咲きました。

咲き始めた新川の桜
 足立寛作さんは誠実な行動で数多くの実績を残しました。
 40年前、“医療砂漠”といわれた県南地区の医療体制、特に救急医療体制の整備に全力を傾注しました。
 1980年に稼働したテキサス・インスツルメンツの美浦工場進出に際して、その排水対策を強化するよう強く働きかけ、霞ケ浦の水質汚染に歯止めをかけました。
 新川の堤防建設計画が持ち上がり、その沿道の桜並木が伐採される危機に瀕した際は、国をも巻き込み計画を変更させました。土浦市民の憩いの場所が守られました。
 関東鉄道筑波線の廃止に当たっては、その線路跡地を土浦自転車専用道「つくばリンリンロード」として整備しました。霞ケ浦自転車道と合わせて日本最長のサイクリングコースとして、地域振興のツールとして大きな期待が集まっています。
 政治家としてだけではなく、茨城県民オペラ協会の会長、茨城県アーチェリー協会の会長としても活躍しました。特に、オペラはライフワークといっても過言ではありません。2008年の国民文化祭で上映された創作オペラ「小町百年の恋〜筑波山愛ものがたり〜」の上演は、足立寛作さんの生涯の活動の金字塔ともいえます。

土浦協同病院
 県南地域の医療整備にかけた足立さんの活動の一端を、医師で作家の佐賀純一先生が弔辞の中で紹介しています。
 42年前のある日、スピーカーから流れる大きな声に驚いて外に飛び出してみると、若い男がたすきをかけて、私の病院の前で演説をしていました。「この町の医者は怠慢極まりない。苦しむ患者が訪れても、休診だと言って応じない。時には救急車の要請にも応じない。腹を刺された患者が病院の前に運ばれながら、治療を拒絶して死亡させるなどといった事件が起きた。全国紙は『医療砂漠・土浦』と書きたてている。こうした状況はなぜ起きたか。ひとえに医者の怠慢とそして医療の貧困である。私は、このような医療行政を根底から変えていきたい。安心して暮らしていける街にするために立候補いたしました。私は、この街を日本一医療の充実した住みやすい街にしてまいります。どうか私を信じてください。この土浦を安心して住むことができる、美しく輝く街にしようではありません」と訴えていました。それを聞いた私は怒りで、体が震えるのを覚えました。確かに問題は山積しているが、その原因を「医者の怠慢」と言ってのけるこの若者は、一体なにものだと驚き、飽きれました。この男が、絶対に当選しないよう、落選するよう神に祈りました。ところがなんとその男は、圧倒的人気を集めて当選してしまったのです。
 この男が足立寛作さんです。
 そしてさらに驚いたのは、当選して数日後、足立さんが我が家を訪れてこう言ったのです。「私の公約を実現するために、どうしたら良いでしょうか?知恵を貸していただけないでしょうか?この問題を一緒に考えていただけないでしょうか?」と!私は心から驚嘆しました。私はこれまで、これほど誠実で心の広い人に会ったことがありませんでした。
 この日、足立さんと幾時間も議論しました。そして、医療砂漠といわれる土浦の医療を改善するには、大病院の役割を分担制にすべきであるとの結論に至りました。例えば、国立病院、協同病院、筑波大学病院の3つの病院は、全く夜間診療、救急医療を受け付けないが、これらの病院が輪番制で休日診療と夜間診療を受け持ってくれれば、また、開業医もここに参加すればいいではないか。こう意見がまとまると、足立さんは3つの大病院の院長と面会し、さらに3者合同会議を提唱してこれを実現しました。その会議で輪番制が合意され、直ちに実行されました。医師会も動きました。独自の改善案を検討し、つくばメディカルセンターの設立にいたりました。
 足立さんが立ちあがったことキッカケに、一挙に県南の医療は向上したのです。それから40年の歳月が流れ県南地域は全国でも屈指の医療が完備した地域として名をとどろかせるに至りました。これは、多くの医療関係者、行政関係者の努力の賜物ですが、元を質せば、足立寛作の選挙での第一声がすべての源だったのです。

写真は、上から「足立寛作さんの選挙ポスター」「創作“オペラ小町100年の恋”のポスター」「今年も咲き始めた新川の桜」「この3月に全面リニューアルした土浦協同病院」。いずれも、3月29日に撮影しました。かな