4月7日、県立多賀高校の平成28年度入学式が開催され、240人の新入生が新たな高校生活のスタートを切りました。
井手よしひろ県議は、来賓を代表して祝辞を述べ、新入生の門出を祝しました。満開のさくらにちなみ、「染井吉野」の由来を紹介しました。
平成28年度、県立多賀高等学校入学式、誠におめでとうございます。
ただ今、ご紹介を戴きました県議会議員の井手よしひろです。厳しい試練を乗り越え、晴れの栄冠を勝ち取られた240人の新入生のみな様、ご入学おめでとうございます。
まさに満開の桜が皆さまのご入学を祝っています。
春といえば桜、日本の春を象徴する花が桜です。そして、ここ日立は桜の都、郷土の先人が公害で荒れ果てた日立の自然を、桜をうえて甦えらせ、戦後の復興を、桜の花とともに進めてきました。
この桜の代表的品種「染井吉野」は、オオシマザクラとエドヒガンザクラを交配して作られました。「染井吉野」は日本人が人工的に作った桜の品種です。
逆に言うと「染井吉野」は、自分で花を咲かせ、実をつけて、種をまいて増やすことはできません。生物としては致命的な欠点。子孫を自らの力で増やすことができないのです。「染井吉野」は、接ぎ木によって全国各地に広がりました。したがって、遺伝子がすべて同じで、日本中、いや世界中の「染井吉野」はすべてクローンであり、兄弟であるということです。「染井吉野」が一斉に開花し、一斉に散る理由は、どれも同じ遺伝子を持っているからです。
では、最初の一本はいつ、どこで、誰が作ったのでしょうか?
「染井吉野」の名が、初めて世に現れたのは1900年(明治33年)の藤野寄命(ふじの・よりなが)博士の論文からです。藤野博士は東京博物館の職員として明治18年から19年にかけて、上野の山の桜を詳細に調査し、移植されて間もない見慣れない桜を発見しました。それが染井から来た桜であることを突きとめて、染井から来た吉野桜の意味で「染井吉野」と命名しました。「染井吉野」が生まれて、まだ150年程度の歴史しかないのです。
では、誰が作ったか、長らくその名が示すよう「染井村」、現在の東京都豊島区駒込の植木屋が、最初に作り売り出したと伝えられていました。最近の遺伝子分析による研究では、駒込に屋敷を持つ藤堂家に仕えるお抱えの植木職人という説も出てきました。
いずれにせよメンデルの法則が発見される数十年前に、オオシマ桜とエドヒガン桜を掛け合わせて、見事な「染井吉野」を作り出したということは驚異的な技術です。そのうえ、接ぎ木という手法で大量に、安定して「染井吉野」を増やす、そのやり方まで考案していました。現代的に言うならば、画期的なバイオ技術です。
たった一本の「染井吉野」は、わずか150年あまりで、日本を席巻し、桜の名所に植えられている桜の8割が「染井吉野」で、占められるまでになりました。 ちなみに、ここ日立に「染井吉野」が初めて植えられたのが、1917年、来年で「染井吉野」100年を迎えます。
私は、万朶と咲き誇る桜の花を見ながら、名も知らぬ庭木職人の努力を思い浮かべます。
江戸の庶民に素晴らしい、美しい花を見てもらいたい。厳しい冬を乗り越えて、生命踊る春を皆で喜びたい、そんな思いを込めて、その職人は単調な作業を繰り返し、「染井吉野」を誕生させたのでしょう。そして、その植木職人は桜花爛漫の桜が咲き誇る姿は、たぶん見られなかったのではないでしょうか?
みなさんの高校生活も同じことが言えると思います。
地道な毎日毎日の勉強、目立たぬ毎日毎日の鍛錬、地道な高校時代の努力が、長い人生で大きな花を咲かせます。高校時代の努力が、多くの人々にすばらしい贈り物を提供します。
皆さまのご入学を改めて、お祝い申し上げ、激励の言葉といたします。
本日は本当におめでとうございました。
井手よしひろ県議は、来賓を代表して祝辞を述べ、新入生の門出を祝しました。満開のさくらにちなみ、「染井吉野」の由来を紹介しました。
平成28年度、県立多賀高等学校入学式、誠におめでとうございます。
ただ今、ご紹介を戴きました県議会議員の井手よしひろです。厳しい試練を乗り越え、晴れの栄冠を勝ち取られた240人の新入生のみな様、ご入学おめでとうございます。
まさに満開の桜が皆さまのご入学を祝っています。
春といえば桜、日本の春を象徴する花が桜です。そして、ここ日立は桜の都、郷土の先人が公害で荒れ果てた日立の自然を、桜をうえて甦えらせ、戦後の復興を、桜の花とともに進めてきました。
この桜の代表的品種「染井吉野」は、オオシマザクラとエドヒガンザクラを交配して作られました。「染井吉野」は日本人が人工的に作った桜の品種です。
逆に言うと「染井吉野」は、自分で花を咲かせ、実をつけて、種をまいて増やすことはできません。生物としては致命的な欠点。子孫を自らの力で増やすことができないのです。「染井吉野」は、接ぎ木によって全国各地に広がりました。したがって、遺伝子がすべて同じで、日本中、いや世界中の「染井吉野」はすべてクローンであり、兄弟であるということです。「染井吉野」が一斉に開花し、一斉に散る理由は、どれも同じ遺伝子を持っているからです。
では、最初の一本はいつ、どこで、誰が作ったのでしょうか?
「染井吉野」の名が、初めて世に現れたのは1900年(明治33年)の藤野寄命(ふじの・よりなが)博士の論文からです。藤野博士は東京博物館の職員として明治18年から19年にかけて、上野の山の桜を詳細に調査し、移植されて間もない見慣れない桜を発見しました。それが染井から来た桜であることを突きとめて、染井から来た吉野桜の意味で「染井吉野」と命名しました。「染井吉野」が生まれて、まだ150年程度の歴史しかないのです。
では、誰が作ったか、長らくその名が示すよう「染井村」、現在の東京都豊島区駒込の植木屋が、最初に作り売り出したと伝えられていました。最近の遺伝子分析による研究では、駒込に屋敷を持つ藤堂家に仕えるお抱えの植木職人という説も出てきました。
いずれにせよメンデルの法則が発見される数十年前に、オオシマ桜とエドヒガン桜を掛け合わせて、見事な「染井吉野」を作り出したということは驚異的な技術です。そのうえ、接ぎ木という手法で大量に、安定して「染井吉野」を増やす、そのやり方まで考案していました。現代的に言うならば、画期的なバイオ技術です。
たった一本の「染井吉野」は、わずか150年あまりで、日本を席巻し、桜の名所に植えられている桜の8割が「染井吉野」で、占められるまでになりました。 ちなみに、ここ日立に「染井吉野」が初めて植えられたのが、1917年、来年で「染井吉野」100年を迎えます。
私は、万朶と咲き誇る桜の花を見ながら、名も知らぬ庭木職人の努力を思い浮かべます。
江戸の庶民に素晴らしい、美しい花を見てもらいたい。厳しい冬を乗り越えて、生命踊る春を皆で喜びたい、そんな思いを込めて、その職人は単調な作業を繰り返し、「染井吉野」を誕生させたのでしょう。そして、その植木職人は桜花爛漫の桜が咲き誇る姿は、たぶん見られなかったのではないでしょうか?
みなさんの高校生活も同じことが言えると思います。
地道な毎日毎日の勉強、目立たぬ毎日毎日の鍛錬、地道な高校時代の努力が、長い人生で大きな花を咲かせます。高校時代の努力が、多くの人々にすばらしい贈り物を提供します。
皆さまのご入学を改めて、お祝い申し上げ、激励の言葉といたします。
本日は本当におめでとうございました。