大島からの眺望
 8月10日、井手よしひろ県議は、瀬戸内国際芸術祭2016の会場の一つとなっている「大島」を訪れました。真っ青な瀬戸内海に囲まれた大島。明るくキラキラしたイメージがある瀬戸内の島々にあって、この大島は特別な意味を持っています。
 大島にはハンセン病の隔離施設であった国立療養所「大島青松園(せいしょうえん)」が設置されています。ハンセン病とは、らい菌により、皮膚や末梢神経が侵される慢性感染症。現在は治療法が確立されています。1900年代から国のハンセン病対策が始まり、絶対隔離をめざす「癩予防法(らい・よぼうほう)」が1931年に成立。1940年代には特効薬が登場しましたが、53年成立の「らい予防法」にも、隔離政策が引き継がれ、1996年まで継続されました。今年4月現在で、64人の元患者が暮らしており、入所者の平均年齢は82.9歳になりました。
大島青松療養所の解剖台
 療養所での生活は、患者の人権を著しく損なうものでした。癩予防法によって、すべてのハンセン病患者は療養所へ閉じ込められることになります(絶対隔離)。いったん療養所に入れられた患者は、死ぬまで外に出られず、家にも帰れないようにされました(終生隔離)。国や地方自治体は、「ハンセン病は治らないし、恐い病気だ」「療養所はとても良い場所だ」と宣伝しました。そして国民に、ハンセン病の患者を見つけたら、警察や役所に知らせるように働きかけました。国は、都道府県に対して、どこが早く全部の患者を療養所に収容させるか競わせました(無癩県運動)。
 療養所では、逃げようとしたり、職員の言うことをきかなかったりした患者は監禁室に入れました。患者同士の結婚は認められていましたが、その子どもを育てるためには費用が掛かるという理由から、患者に子どもを産めないようにする手術(断種手術や中絶手術)が施されました。料理や洗濯、大工や道路工事、畑仕事など、療養所での仕事も、患者が受け持ちました。その報酬はひどく安いものでした。

 ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」は、1996年に廃止されましたが、患者の人権回復をめぐる動きは現在も続いています。
 15年前の(2001年)7月4日、公明党の坂口力厚生労働相(当時)は、大島青松園を訪れ、国の隔離政策によって苦痛を与え続けてきたことを謝罪するとともに、1989人が眠る納骨堂や慰霊碑「風の舞」で献花・合掌し、亡くなった方々のめい福を祈りました。
 入所者との意見交換会で坂口厚労相は、「生涯にわたる隔離政策をとり続けてきたことに対し、心からお詫(わ)び申し上げたい」と謝罪し、「生きていてよかったと言っていただけるように福祉、医療の充実や名誉回復に全力で取り組みたい」とあいさつしました。坂口厚労相のあいさつは、園内放送で入所している全戸に伝えられました。
 これに対し、入所者を代表して入所者自治会の冨田幹雄会長(当時)とハンセン病訴訟全国原告団協議会の曽我野一美会長(当時)が、控訴断念、国会決議に尽力した坂口厚労相への感謝の言葉を述べる一方、今後の名誉回復の措置や施設の統廃合問題、差別偏見の撤廃などについて要望しました。
 訪問後、坂口厚労相は「周(まわ)りを瀬戸内海に囲まれた大島青松園の入所者の皆さんは、国の隔離政策を最も身にしみて感じていたのではないか。島で生活したい人がいる限り施設の統廃合はせず、最後まで安心して暮らせるように全力で取り組みたい」と語りました。
 現在、全国に13か所の国立ハンセン病療養所(http://www1.mhlw.go.jp/link/link_hosp_12/hosplist/nc.html)と2か所の私立ハンセン病療養所(神山復生病院・待労院診療所)があり、2144人(平成24年5月1日現在)が入所しています。ほとんどがすでに治癒している元患者で、平均年齢は80歳を超えています。高齢と病気の後遺症による障害、さらにかつて強制的に行われた断種手術、堕胎手術のために子供がいない元患者が多いことから、介護がハンセン病以外の病気の治療のため療養所に入所しています。社会復帰するための支援を行っていますが、実際に社会復帰できた例は非常にまれです。

大島の作品
人権抑圧の島でアートの祭典
 この「大島青松せいしょう園」で、瀬戸内国際芸術祭の作品が展示されています。「つながりの家:GALLERY15【海のこだま】」と銘打たれた作品は、ハンセン病療養施設にギャラリーや資料室、カフェなどを設け、入居者たちとの交流を深めながら活動中のやさしい美術プロジェクトです。GALLERY15「海のこだま」は展示が新しくなり、入所者だった故鳥栖喬(とす・たかし)氏が撮影した写真作品「ひたすら遠くを眺める」などが展示されています。隔絶された島で人生の大半を過ごし、行き交う船や対岸に沈む夕日などを撮り続けた鳥栖さん。いつか作品を世に出したいと望んでいたことを知った関係者が「外の世界に自由を求め続けた気持ちを伝えたい」と企画しました。
 鳥栖さんは愛媛県宇和島市出身で、15歳で青松園に収容されました。2010年3月に81歳で亡くなるまで66年間、ずっと大島で暮らし、入所者でつくる写真クラブの会長を長年務めました。 両手が不自由だった鳥栖さんは、カメラを扱いやすいよう木片や鉄くずを組み合わせて、撮影補助具も自作しました。鳥栖さんが使っていた部屋からは、1万枚を超えるフィルムと写真を派遣されています。
 展示会場は、入所者が暮らした青松園の木造長屋が選ばれました。えりすぐった10点は、長時間露光で撮影した星空や葉の落ちたイチョウなどです。

鳥栖喬さんの部屋
 その他、入所者の生活用具などを展示する「大島資料室」や、大島の歌人の間で受け継がれてきた蔵書を収蔵した「北海道書庫」。 陸上の上に海底の世界を繰り広げる空間詩。大粒の涙を流し続ける人魚や、難破船と水中の多様な生き物がいる空間など回遊型のインスタレーション「青空水族館」。大島産の新鮮な野菜や果物をふんだんに使ったドリンクやスイーツが、大島の土で焼いた器で味わえる「カフェ・シヨル」などの魅力的な展示が観賞出来ます。
 地域の歴史と現実を、アートという媒体を使って、多くの市民と共有する優れた試みが、大島でのアートプロジェクトでした。ぜひ、鑑賞されることをお勧めします。大島の作品鑑賞は、コエビ隊によるガイドツアーでのみ見学が可能です。芸術祭総合インフォメーションセンターで整理券を事前に入手し、ガイドツアー専用の船舶で大島と高松港を往復します。問い合わせは、087ー813ー2244まで。