
「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から!」との印象的な音楽とこの掛け声が聴こえてくるだけで、思わず身体が動き出してしまいます。おなじみの「ラジオ体操」。日立市内の小中学校は現在夏休みですが、「子ども会のラジオ体操が、夏休みの思い出のひとつだった」というかたも、多いのではないでしょうか。
国民の健康増進と体力向上などを目的に、旧逓信省がラジオ体操を制定したのは1928年(昭和3年)。NHKの前身である東京中央放送局によるラジオ放送は昭和3年11月1日から始まりました。そもそも戦意高揚の要素もあったことから、当時のラジオ体操は鍛錬的な要素も強く、戦後の一時期、他の武道などと同じく禁止されていました。
現在のラジオ体操「第1」が制定されたのは1951年(昭和26年)です。今年はちょうど65年。翌52年には「第2」も誕生しました。以来、ラジオ体操は年齢を問わず、いつでも気軽に行える体操として、全国で親しまれています。
ラジオ体操は「第1」「第2」とも、13の動きから構成される全身運動で、左右対称に同じ動作を行います。体を前後・左右・上下に動かすことで、頭からつま先までバランスよく刺激を与えられるように考案されており、呼吸は止めずに、力まず、ゆったりと、使っている筋肉や伸びている部位を意識しながら、大きな動作で行うことが大事です。
神奈川県立保健福祉大学の研究会が、ラジオ体操を3年以上、週5日以上実践している55歳以上の男女543人の健康状態を調査したデータがあります。それによると、男女とも各年代で基礎代謝量や筋肉量などから算出する「体内年齢」が、実年齢より約20歳も若いという結果が出ました。また、血管年齢や骨密度なども良好な数値であることが分かっています。
ラジオ体操は第1、第2とも3分程度であり、例えばダイエット目的に行っても即効性は期待できませんが、長く続けることで全身の筋肉をくまなく使うことが習慣化されます。基礎代謝が上がり、筋力も付き、結果的に痩せやすい体づくりや転倒予防、柔軟性の維持などに役立つといわれています。
さらに、ラジオ体操は身体的な効果とは別に「地域コミュニティーの再構築」にも役立つ点に注目しなければなりません。朝のひと時、地域住民が集まり同じ運動を行うことで、相互理解が深まります。日立市内でも、こうした好事例がたくさんあります。
ラジオ体操第1(実演)
ラジオ体操第2(実演)
ラジオ体操の考案者は日立市出身・遠山喜一郎氏
さて、このラジオ体操を、「日立市出身のかたが作った」ということは、案外知られていません。
明治42年に、現在の日立市(水木町)に生まれた遠山喜一郎さん。ベルリンオリンピックに体操の日本代表として出場し、日本体操協会の副会長も務めた遠山さんは、「一度動き出したら、音楽に乗って最後までやりきれる」体操として、このラジオ体操を考案しました。
ラジオ体操は、日本で最も有名な体操で、最も動作を知る人が多い体操だと思います。そんなラジオ体操の生みの親は、日立市の出身。とても誇らしいことです。
ラジオ体操…茨城県出身の遠山喜一郎が作った動きとリズム(いばらきもの知り情報より)
遠山さんは明治42(1909)年に茨城県に生まれました。優れた身体能力で体操競技に打ち込み、昭和11(1936)年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表選手として出場。後に、日本体操協会副会長を務めるとともに日本にいち早く新体操を紹介し、その普及と発展に尽力した人物としても知られています。
遠山さんが作成依頼を受けたのは、戦後のラジオ体操再改訂版(現在のラジオ体操)。再改定版ですから、それ以前に改訂版が存在しました。しかし改訂版は、動作が複雑な上に難しく、ほとんど国民に浸透しなかったため、昭和21(1946)年の放送開始から1年半で中止になってしまいます。そこで、遠山さんをはじめとする原案作成委員たちの、新しいラジオ体操を作るための取り組みが始まりました。
作成に当たって重点を置いたのは、動きの「つなぎ」とリズムの「流れ」。「一度動き出したら、音楽に乗って最後までやりきれるものでなくてはならない」というのが遠山さんの体操理論。それまで日本にはない身体の動きは、作成するのが非常に困難だと思われていました。しかし、戦時中に土浦海軍航空隊予科練で体育教師を務めていた遠山さんは、その時すでにリズム体操を訓練に取り入れていたのです。その経験を生かし、ラジオ体操をたった一人で作り上げました。
そして、昭和26(1951)年5月、ついにラジオ体操「第1」の放送が開始されました。その出来映えはあまりにも素晴らしく、アメリカ空軍の大佐から「自分たちの基地でも取り入れたい」と申し入れがあったという逸話が残されています。
ラジオ体操に対する熱意が、終戦直後のGHQをも説得
こうして戦後のラジオ体操は、アメリカ軍からも認められる存在となりましたが、そこに至るまではかなり険しい道のりでした。終戦直後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に入ります。しかし、すぐにラジオ体操が中止になったわけではありません。敗戦の日の1週間後には、当然のようにラジオ体操は再開。それほど、日本人の生活に密着した存在となっていたのです。
しかし、それを目にしたGHQ内でラジオ放送を管轄していたCIE(民間情報教育局)は、NHK(日本放送協会)の幹部職員を呼びつけ即刻中止を指示します。なにしろNHKラジオから流れてくる号令に合わせて、約300万人ともいわれる人たちが一斉に同じ動作を行うのです。欧米人にはまったく理解できず、ある意味、恐怖を覚える光景だったのかも知れません。
当時、GHQは「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト」という日本に対する戦後教育を行っていました。ともすると、全体主義的に見えるラジオ体操が禁止されるのは当然のことでもありました。そこで、ラジオ体操関係者らが、「ラジオ体操は気分をさわやかにするもので、争いをなくすには効果的だ」と説得します。実際に連合軍の将校たちの前で体操を見せるなどの努力の結果、ラジオ体操は再開されたのです。
遠山さんも戦後のラジオ体操改訂版が中断したときには、全国の教育委員会を廻り、県民体操や市民体操の制定を求めて奔走しています。上からの統制ではなく、国民が自発的に行う民主主義的な活動であるなら、GHQも規制できないと考えたからです。実際に、遠山さんは茨城県民体操をモデルとして作成。現在も、県内にある多くの小・中学校で取り入れられています。
ラジオ体操の素晴らしさは、富士山の美しさと同じ
日本でラジオ体操が最初に放送されたのは、昭和3(1928)年のこと。アメリカの生命保険会社が考案したラジオ体操を実施し、日本での簡易保険普及のために活用しようと考えたのです。そして、郵政省簡易保険局が制定し、生命保険会社協会とNHKとの共同で広められました。しかし、NHKで簡易保険の広告をすることはできず、集団的精神を培養するためとして事業は進められました。
ラジオ体操の黎明期には、全国に広めるためのさまざまな取り組みが行われました。体操をしながら眺める「体操掛軸」や「体操人形」の作成、また、「国民体操宣伝隊」を組織し、全国各地を廻る取り組みもなども行われています。また、「健康星取表」というカードの無料配布も行われました。体操をした後に星を付け、1銭の貯金をする。ラジオ体操をすると、健康とお金が手に入るというわけです。
さらに、体操の指導者育成も積極的に行います。全国各地でラジオ体操指導者講習会が開かれ、修了者には「指導者章」が授与されました。昭和13(1938)年には約11,000人が指導者として認定され、各地で「ラジオ体操の会」が発足。さらに全国統一組織「ラジオ体操連盟」が結成されました。これが現在の「全国ラジオ体操連盟」の前身です。
そして現在、ラジオ体操関係最大のイベントとして「1000万人ラジオ体操・みんなの体操祭」が毎年開催されています。このイベントは、1000万人にも及ぶ人々が一斉にラジオ体操を行うという壮大なもの。昭和38(1963)年からスタートし、株式会社かんぽ生命、NHK、NPO法人全国ラジオ体操連盟主催で、毎年、開催地を変えて行われています。草の根的な人気の高さは、ラジオ体操関連書籍が好評であることなどからも伺うことが出来ます。
夏休みの早朝、まだ涼しい風が吹く中を、ラジオ体操の出席カードを首から下げて広場まで走った…。そんな思い出のある方も多いと思います。遠山喜一郎さんは、生前、こんな言葉を残しています。「富士山は裾野が広いから美しい。ラジオ体操も同じだ。国民全体がやって、はじめて素晴らしいものになるんだ」。みなさんも少しだけ早起きして、ラジオ体操を日課にしてみてはいかがですか?
いばらきもの知り情報:http://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/info/42/index.html
ラジオ体操は第1、第2とも3分程度であり、例えばダイエット目的に行っても即効性は期待できませんが、長く続けることで全身の筋肉をくまなく使うことが習慣化されます。基礎代謝が上がり、筋力も付き、結果的に痩せやすい体づくりや転倒予防、柔軟性の維持などに役立つといわれています。
さらに、ラジオ体操は身体的な効果とは別に「地域コミュニティーの再構築」にも役立つ点に注目しなければなりません。朝のひと時、地域住民が集まり同じ運動を行うことで、相互理解が深まります。日立市内でも、こうした好事例がたくさんあります。
ラジオ体操第1(実演)
ラジオ体操第2(実演)
ラジオ体操の考案者は日立市出身・遠山喜一郎氏

明治42年に、現在の日立市(水木町)に生まれた遠山喜一郎さん。ベルリンオリンピックに体操の日本代表として出場し、日本体操協会の副会長も務めた遠山さんは、「一度動き出したら、音楽に乗って最後までやりきれる」体操として、このラジオ体操を考案しました。
ラジオ体操は、日本で最も有名な体操で、最も動作を知る人が多い体操だと思います。そんなラジオ体操の生みの親は、日立市の出身。とても誇らしいことです。
ラジオ体操…茨城県出身の遠山喜一郎が作った動きとリズム(いばらきもの知り情報より)
遠山さんは明治42(1909)年に茨城県に生まれました。優れた身体能力で体操競技に打ち込み、昭和11(1936)年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表選手として出場。後に、日本体操協会副会長を務めるとともに日本にいち早く新体操を紹介し、その普及と発展に尽力した人物としても知られています。
遠山さんが作成依頼を受けたのは、戦後のラジオ体操再改訂版(現在のラジオ体操)。再改定版ですから、それ以前に改訂版が存在しました。しかし改訂版は、動作が複雑な上に難しく、ほとんど国民に浸透しなかったため、昭和21(1946)年の放送開始から1年半で中止になってしまいます。そこで、遠山さんをはじめとする原案作成委員たちの、新しいラジオ体操を作るための取り組みが始まりました。
作成に当たって重点を置いたのは、動きの「つなぎ」とリズムの「流れ」。「一度動き出したら、音楽に乗って最後までやりきれるものでなくてはならない」というのが遠山さんの体操理論。それまで日本にはない身体の動きは、作成するのが非常に困難だと思われていました。しかし、戦時中に土浦海軍航空隊予科練で体育教師を務めていた遠山さんは、その時すでにリズム体操を訓練に取り入れていたのです。その経験を生かし、ラジオ体操をたった一人で作り上げました。
そして、昭和26(1951)年5月、ついにラジオ体操「第1」の放送が開始されました。その出来映えはあまりにも素晴らしく、アメリカ空軍の大佐から「自分たちの基地でも取り入れたい」と申し入れがあったという逸話が残されています。
ラジオ体操に対する熱意が、終戦直後のGHQをも説得
こうして戦後のラジオ体操は、アメリカ軍からも認められる存在となりましたが、そこに至るまではかなり険しい道のりでした。終戦直後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に入ります。しかし、すぐにラジオ体操が中止になったわけではありません。敗戦の日の1週間後には、当然のようにラジオ体操は再開。それほど、日本人の生活に密着した存在となっていたのです。
しかし、それを目にしたGHQ内でラジオ放送を管轄していたCIE(民間情報教育局)は、NHK(日本放送協会)の幹部職員を呼びつけ即刻中止を指示します。なにしろNHKラジオから流れてくる号令に合わせて、約300万人ともいわれる人たちが一斉に同じ動作を行うのです。欧米人にはまったく理解できず、ある意味、恐怖を覚える光景だったのかも知れません。
当時、GHQは「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト」という日本に対する戦後教育を行っていました。ともすると、全体主義的に見えるラジオ体操が禁止されるのは当然のことでもありました。そこで、ラジオ体操関係者らが、「ラジオ体操は気分をさわやかにするもので、争いをなくすには効果的だ」と説得します。実際に連合軍の将校たちの前で体操を見せるなどの努力の結果、ラジオ体操は再開されたのです。
遠山さんも戦後のラジオ体操改訂版が中断したときには、全国の教育委員会を廻り、県民体操や市民体操の制定を求めて奔走しています。上からの統制ではなく、国民が自発的に行う民主主義的な活動であるなら、GHQも規制できないと考えたからです。実際に、遠山さんは茨城県民体操をモデルとして作成。現在も、県内にある多くの小・中学校で取り入れられています。
ラジオ体操の素晴らしさは、富士山の美しさと同じ
日本でラジオ体操が最初に放送されたのは、昭和3(1928)年のこと。アメリカの生命保険会社が考案したラジオ体操を実施し、日本での簡易保険普及のために活用しようと考えたのです。そして、郵政省簡易保険局が制定し、生命保険会社協会とNHKとの共同で広められました。しかし、NHKで簡易保険の広告をすることはできず、集団的精神を培養するためとして事業は進められました。
ラジオ体操の黎明期には、全国に広めるためのさまざまな取り組みが行われました。体操をしながら眺める「体操掛軸」や「体操人形」の作成、また、「国民体操宣伝隊」を組織し、全国各地を廻る取り組みもなども行われています。また、「健康星取表」というカードの無料配布も行われました。体操をした後に星を付け、1銭の貯金をする。ラジオ体操をすると、健康とお金が手に入るというわけです。
さらに、体操の指導者育成も積極的に行います。全国各地でラジオ体操指導者講習会が開かれ、修了者には「指導者章」が授与されました。昭和13(1938)年には約11,000人が指導者として認定され、各地で「ラジオ体操の会」が発足。さらに全国統一組織「ラジオ体操連盟」が結成されました。これが現在の「全国ラジオ体操連盟」の前身です。
そして現在、ラジオ体操関係最大のイベントとして「1000万人ラジオ体操・みんなの体操祭」が毎年開催されています。このイベントは、1000万人にも及ぶ人々が一斉にラジオ体操を行うという壮大なもの。昭和38(1963)年からスタートし、株式会社かんぽ生命、NHK、NPO法人全国ラジオ体操連盟主催で、毎年、開催地を変えて行われています。草の根的な人気の高さは、ラジオ体操関連書籍が好評であることなどからも伺うことが出来ます。
夏休みの早朝、まだ涼しい風が吹く中を、ラジオ体操の出席カードを首から下げて広場まで走った…。そんな思い出のある方も多いと思います。遠山喜一郎さんは、生前、こんな言葉を残しています。「富士山は裾野が広いから美しい。ラジオ体操も同じだ。国民全体がやって、はじめて素晴らしいものになるんだ」。みなさんも少しだけ早起きして、ラジオ体操を日課にしてみてはいかがですか?
いばらきもの知り情報:http://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/info/42/index.html