11月15日、1999年から2011年まで、日立市長を3期12年間務めた樫村千秋さんの告別式が、しめやかに日立平和台会館で行われました。11月8日、心不全のため72歳で鬼籍に入られました。
樫村さんとの出会いは、新米の県議時代。知事公室長などを歴任されていた時に、様々なアドバイスをいただいたことです。優しい語り口で、県の幹部職員というより同郷の先輩という感覚でした。
その樫村さんがある日、ご自身でわたくしの自宅を訪ねてくださいました。ちょうど不在にしていた際に、訪問してくださったようです。早速、私の家内から電話が入ってきました。「樫村さんという方が来て、自分の畑で作ったものだからといって、ジャガイモを置いていった。どうしようか?」との内容でした。議員と県職員という間柄でも、手作りのジャガイモなら許されるだろうと、おいしくいただいた記憶があります。
それから数年して、多くの市民の声にこたえて市長選に立候補。よくぞ決断してくれたと、一期目の選挙から応援させていただきました。
市長一期目で印象的な出来事が、1999年9月に発生したJCOの臨界事故です。何度も市の災対本部に足を運び、市長の命を受け国とのパイプ役となりました。二度とこのような事故が起こらないよう、市民の安全が守られるよう努力しました。「情報を市民にもれなく伝えらるよう、防災無線を各戸配布したい。何とかならないだろうか?」と、市長から依頼を受けました。
公明党は連立政権に入っており、担当の担当副長官に粘り強く交渉をしました。事故から半年後、市内の半分(JCOから10キロ圏内)の地域に個別受信機を配備する予算が認められました。「大変な予算が認められました。ありがとうございました」と、丁寧な御礼の電話をいただいたのが印象的でした。(参考記事:http://www.jsdi.or.jp/~y_ide/001214jco.htm)
樫村さんとの出会いは、新米の県議時代。知事公室長などを歴任されていた時に、様々なアドバイスをいただいたことです。優しい語り口で、県の幹部職員というより同郷の先輩という感覚でした。
その樫村さんがある日、ご自身でわたくしの自宅を訪ねてくださいました。ちょうど不在にしていた際に、訪問してくださったようです。早速、私の家内から電話が入ってきました。「樫村さんという方が来て、自分の畑で作ったものだからといって、ジャガイモを置いていった。どうしようか?」との内容でした。議員と県職員という間柄でも、手作りのジャガイモなら許されるだろうと、おいしくいただいた記憶があります。
それから数年して、多くの市民の声にこたえて市長選に立候補。よくぞ決断してくれたと、一期目の選挙から応援させていただきました。
市長一期目で印象的な出来事が、1999年9月に発生したJCOの臨界事故です。何度も市の災対本部に足を運び、市長の命を受け国とのパイプ役となりました。二度とこのような事故が起こらないよう、市民の安全が守られるよう努力しました。「情報を市民にもれなく伝えらるよう、防災無線を各戸配布したい。何とかならないだろうか?」と、市長から依頼を受けました。
公明党は連立政権に入っており、担当の担当副長官に粘り強く交渉をしました。事故から半年後、市内の半分(JCOから10キロ圏内)の地域に個別受信機を配備する予算が認められました。「大変な予算が認められました。ありがとうございました」と、丁寧な御礼の電話をいただいたのが印象的でした。(参考記事:http://www.jsdi.or.jp/~y_ide/001214jco.htm)
樫村さんの政治姿勢は、市民の声をじっくりと聞き、粛々と準備を進めて、大胆に実行するというタイプでした。余り目立ちませんが、その実行力は歴代の市長の中でもピカイチだと思っています。例えば、市役所の主な窓口の休日開庁を実現しました。土日もほとんどの窓口業務ができるのは、県内では日立市ぐらいです。月曜日に図書館や市民会館が当然のようにオープンしていることに、他の自治体の方は驚いています。
いち早く行財政改革を断行して、日立市住宅・都市整備公社、日立市生きがい事業団、土地開発公社を解散させました。廃止や県への譲渡も噂された「かみね動物園」も、見事に再生させたのも樫村さんの功績です。
何と言っても行政手腕が高く評価されたのは、十王町との2004年11月の合併事業です。様々な課題を乗り越えて、十王町との円満な合併を実現させました。新生日立市が誕生し、一時的でしたが人口は約20万6000人となり、つくば市を抜いて県内第2位に返り咲きました。
どちらかというと優柔不断と誤解される面があったのも事実。でも、でもそれは、樫村さんの気配り、慎重さの裏返しで、実は即断即決ができる人でした。私は、県議会議員という身軽さもあり、少し乱暴な言い方をすれば“樫村親分の特攻隊長”のような役割を担わせていただきました。
2002年12月、3期目の県議選を終えた直後、三重県津市に赴きました。当時、最新のデジタルテクノロジーを活用して、全国から注目を浴びていたケーブルテレビ事業者「ZTV」を視察しました。その役員室から、樫村さんの市長室にインターネット電話(IP電話)を掛けました。「市長!ケーブルテレビとインターネット、そして電話。この三位一体の情報通信基盤は、新たな日立市発展の礎になります。ケーブルテレビ導入について、是非研究してみませんか」と少し興奮気味で提案しました。樫村さんは、いつものように冷静に「総務省の補助金制度もありますね。具体的に検討しましょう」と答えました。
これが、2005年3月からサービスを開始した日立市のケーブルテレビJWAYの誕生に繋がっていきます。当然、整備に掛かった予算の大部分は、樫村さんの政治手腕のお陰で、国の補助金で賄われました。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/8122883.html)
即断即決の樫村さんの逸話をもう一つ。国の年金改革の一貫として、日立市の南部・久慈浜にあるサンピア日立の売却問題が惹起しました。サンピア日立は厚生年金の保養施設として建設され、運営されていました。2005年の年金改革の中で、2011年春までに売却されるか、廃止・解体されることが法律で決められました。久慈浜学区、大みか学区、坂下学区の地元の皆さんは「地域に必要な施設で、市が運営を継続してほしい」と1万人以上の署名を集め、市による買い上げを熱望しました。樫村さんは、市民が望むことなら絶対に実現させたい。と言い切りました。ただ、単なる予算をつければ良いという事業ではありません。
大きな課題が横たわっていました。年金施設の処分を行っていた“年金・健康保険福祉施設整理機構(RFO)”は、当初、複数の施設をまとめて競売処分をする方針でした。この一括処分が行われては、日立市が入札に手を挙げることは出来ません。そこで、私は県や国、様々なルートを活用して一括処分の方針を変更していただけるようRFOと交渉しました。その結果、2009年3月3日、「サンピア日立の土地建物の売却を一般競争入札方式で実施する」とPFOは当初の方針を変更。サンピア日立の単独入札を公告しました。
5月9日昼過ぎ、樫村さんからの携帯が鳴りました。「井手さん、落札できましたよ。金額は3億4500万円。345と語呂が良かったので、その金額で入札しました」との連絡でした。最低制限価格は3億3000万円、日立市が入札に参加する決断も見事でしたが、この落札金額の決定も見事でした。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/50783105.html)
樫村さんとの思い出の中に、残念な事もいくつかあります。その一つが、日立電鉄の廃線を止められなかったということです。「庶民、学生の足を守りたい」との樫村さんの思いは、はじめから堅かったと思います。しかし、会社側の姿勢も頑なで、その壁を打ち破ることは出来ませんでした。市民の足を守りたいという思いは、BRTという新たな形で結実することになります。
2011年の東日本大震災は、樫村さんにとっても、最も残念な出来事となりました。4月に勇退することをすでに決断されていた樫村さんでしたが、不自由になった足を引きずりながら、市民生活の復旧、復興のために全力を上がられました。現在は、国土交通大臣を務める石井啓一衆議院議員の視察に、朝早くから同行してくださいました。日立港のモータープールや久慈サンピア日立、市内の避難所などを詳細に視察し、国に対する要望を訴えられていました。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/51225020.html)
樫村さんの3期12年は日立市制の長い歴史の中で、高く評価されて良いと思います。バブル崩壊、産業構造の急変、リーマンショックと厳しい社会環境の中で、後世の市民から喜んでいただける仕事を成し遂げたと思います。
実は退任後も何度か、県庁で樫村さんをお見かけしています。市長という肩書きがなくなった後でも、樫村さんは県庁に通い、ご自身が在職中に手がけた市民の命を守る事業を成し遂げるために奔走していました。その後姿から、多くのことを学ばせていただきました。
最後に一言、樫村さん、長らくご苦労様でした。そして、ありがとうございました(合掌)
いち早く行財政改革を断行して、日立市住宅・都市整備公社、日立市生きがい事業団、土地開発公社を解散させました。廃止や県への譲渡も噂された「かみね動物園」も、見事に再生させたのも樫村さんの功績です。
何と言っても行政手腕が高く評価されたのは、十王町との2004年11月の合併事業です。様々な課題を乗り越えて、十王町との円満な合併を実現させました。新生日立市が誕生し、一時的でしたが人口は約20万6000人となり、つくば市を抜いて県内第2位に返り咲きました。
どちらかというと優柔不断と誤解される面があったのも事実。でも、でもそれは、樫村さんの気配り、慎重さの裏返しで、実は即断即決ができる人でした。私は、県議会議員という身軽さもあり、少し乱暴な言い方をすれば“樫村親分の特攻隊長”のような役割を担わせていただきました。
2002年12月、3期目の県議選を終えた直後、三重県津市に赴きました。当時、最新のデジタルテクノロジーを活用して、全国から注目を浴びていたケーブルテレビ事業者「ZTV」を視察しました。その役員室から、樫村さんの市長室にインターネット電話(IP電話)を掛けました。「市長!ケーブルテレビとインターネット、そして電話。この三位一体の情報通信基盤は、新たな日立市発展の礎になります。ケーブルテレビ導入について、是非研究してみませんか」と少し興奮気味で提案しました。樫村さんは、いつものように冷静に「総務省の補助金制度もありますね。具体的に検討しましょう」と答えました。
これが、2005年3月からサービスを開始した日立市のケーブルテレビJWAYの誕生に繋がっていきます。当然、整備に掛かった予算の大部分は、樫村さんの政治手腕のお陰で、国の補助金で賄われました。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/8122883.html)
即断即決の樫村さんの逸話をもう一つ。国の年金改革の一貫として、日立市の南部・久慈浜にあるサンピア日立の売却問題が惹起しました。サンピア日立は厚生年金の保養施設として建設され、運営されていました。2005年の年金改革の中で、2011年春までに売却されるか、廃止・解体されることが法律で決められました。久慈浜学区、大みか学区、坂下学区の地元の皆さんは「地域に必要な施設で、市が運営を継続してほしい」と1万人以上の署名を集め、市による買い上げを熱望しました。樫村さんは、市民が望むことなら絶対に実現させたい。と言い切りました。ただ、単なる予算をつければ良いという事業ではありません。
大きな課題が横たわっていました。年金施設の処分を行っていた“年金・健康保険福祉施設整理機構(RFO)”は、当初、複数の施設をまとめて競売処分をする方針でした。この一括処分が行われては、日立市が入札に手を挙げることは出来ません。そこで、私は県や国、様々なルートを活用して一括処分の方針を変更していただけるようRFOと交渉しました。その結果、2009年3月3日、「サンピア日立の土地建物の売却を一般競争入札方式で実施する」とPFOは当初の方針を変更。サンピア日立の単独入札を公告しました。
5月9日昼過ぎ、樫村さんからの携帯が鳴りました。「井手さん、落札できましたよ。金額は3億4500万円。345と語呂が良かったので、その金額で入札しました」との連絡でした。最低制限価格は3億3000万円、日立市が入札に参加する決断も見事でしたが、この落札金額の決定も見事でした。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/50783105.html)
樫村さんとの思い出の中に、残念な事もいくつかあります。その一つが、日立電鉄の廃線を止められなかったということです。「庶民、学生の足を守りたい」との樫村さんの思いは、はじめから堅かったと思います。しかし、会社側の姿勢も頑なで、その壁を打ち破ることは出来ませんでした。市民の足を守りたいという思いは、BRTという新たな形で結実することになります。
2011年の東日本大震災は、樫村さんにとっても、最も残念な出来事となりました。4月に勇退することをすでに決断されていた樫村さんでしたが、不自由になった足を引きずりながら、市民生活の復旧、復興のために全力を上がられました。現在は、国土交通大臣を務める石井啓一衆議院議員の視察に、朝早くから同行してくださいました。日立港のモータープールや久慈サンピア日立、市内の避難所などを詳細に視察し、国に対する要望を訴えられていました。
(参考記事:http://blog.hitachi-net.jp/archives/51225020.html)
樫村さんの3期12年は日立市制の長い歴史の中で、高く評価されて良いと思います。バブル崩壊、産業構造の急変、リーマンショックと厳しい社会環境の中で、後世の市民から喜んでいただける仕事を成し遂げたと思います。
実は退任後も何度か、県庁で樫村さんをお見かけしています。市長という肩書きがなくなった後でも、樫村さんは県庁に通い、ご自身が在職中に手がけた市民の命を守る事業を成し遂げるために奔走していました。その後姿から、多くのことを学ばせていただきました。
最後に一言、樫村さん、長らくご苦労様でした。そして、ありがとうございました(合掌)