茨城県映画『水戸射爆場』(昭和45年)
 ネット上で「一生のうちに一度は行ってみたい観光地」と評価されている「国営ひたち海浜公園」。今では、春のネモフィラ、秋のコキアと、その魅力に多くの人がこの場所を訪ねます。この海浜公園の用地は、旧日本軍の東水戸飛行場でした。戦後の昭和21年に連合国軍に接収され、昭和24年からは在日米空軍の対地射爆撃場として利用されました。これが「水戸射爆場」です。茨城県内では唯一の米軍基地となりました。
 昭和32年8月2日には、アメリカ空軍機が誤って超低空飛行を行い、射爆撃場のそばの道路を自転車で通行していた毋子2名を航空機のタイヤでひき殺すという、痛ましい事件が発生しました。「さつまいも畑が飛行機の車輪でなぎ倒され、被害者の体がばらばらに散らばり、警察・消防関係者が長火箸で肉片を拾っていました。あたり一面さつまいもの葉が真っ赤な血で染まり直視できないほどでした」との証言が残っています。
 この事件は、ゴードン事件として知られるようになり、射爆撃場周辺地域の危険が一挙に表面化しました。付近では連日のように米軍の飛行機が超低空で飛行しては住民を驚かせていたことから、この事件も悪質ないたずらとみて、那珂湊市議会は抗議文を提出しました。一方、アメリカ軍側は異常高温による熱気流が原因の不可抗力による事故であると主張。
 茨城県警はジョン・L・ゴードン中尉を業務上過失致死及び同傷害で水戸地検に書類送検し任意出頭を求めました。しかし、この事件はアメリカ軍の公務中に起きたものであるとして、日米地位協定により日本側の第一次裁判権が放棄され捜査も終了しました。 日本政府が遺族側に432,044円を補償し、事件は決着を見ました。
ひたちなか市のHPより
 この他にも、訓練地としては人家に近いため、誤射・誤投下等の演習に伴う事故や事件が度重なりました。昭和38年の勝田市の市報では、「水戸射爆撃場設置以来、死亡者20名に達しています」との記載があります。同じ市報には、射爆撃場沿い(1キロメートル内外)に約3000人(500世帯)の住民が住んでいるとの記述もあります。さらに、昭和40年には東海原発が稼動するなど、周辺には原子力施設が林立しています(射爆場との東海原発との距離は約5キロしか離れていません)。


 こうした状況を改善するために、地元では「基地対策委員会」が設置され返還運動が活発に行われるようになりました。
 茨城県や国の返還に向けた努力が実り、昭和46年射爆撃演習の停止、昭和46年3月に日本に返還されました。
 その後、「平和の象徴として公園を整備したい」という地元の強い思いにより、『国営ひたち海浜公園』が誕生することになりました。無数の爆弾や銃弾が撃ち込まれた標的の跡は、今では花いっぱいの丘に生まれ変わりました。
 冒頭の動画は、昭和45年に茨城県が制作した「茨城県映画『水戸射爆場』」です。当時の貴重な歴史が記されています。
 次の動画は、昭和39年に制作された「県だよりNo50」と昭和63年に制作された「茨城県映画『映像に残る茨城の戦後史』」から、返還運動の模様を伝える部分を再編集したものです。
ひたち海浜公園“みはらしの丘”