大煙突からみた日立市
 日立市のシンボルといえば、「大煙突とさくら」です。この一見関係性のない2つのシンボルは、実は同じルーツを持っています。
 現在日立市では、市民有志、企業、そして自治体が一体となり、新田次郎の名作「ある町の高い煙突」の映画化が進んでいます。このブログはこの映画のモチーフともなっている「大煙突とさくら」について、日立市の資料などからまとめてみたいと思います。

【日立鉱山の発展と煙害の深刻化】
 日立市の産業発展の源は、日立鉱山の創業にもとめることができます。
 佐竹氏がこの日立地域を治めていた江戸時代以前から、この地には「赤沢銅山」が存在し、細々と銅の採鉱が行われてきました。
 1905年(明治38年)、日本鉱業の創業者久原房之助がこの赤沢銅山を買収し、その名を村名の「日立村」にちなんで「日立鉱山」と改称し、近代的な鉱山経営に乗り出しました。
 日立鉱山は当時の最新技術、積極的に取り入れ、銅の鉱脈探しを進めました。わずか2年で、その後の鉱山隆盛期の核となる良質の鉱床を次々と発見。銅の埋蔵量の豊かさを確信した久原は、他鉱山の銅鉱石を買い入れて製鉄することを決断しました。銅の製錬所を本山地区から、2キロほど海よりの天童山大雄院(だいおういん)の寺域に移し、1912年(大正元年)までに合計10基の溶鉱炉を完成させました。
 時代は日露戦争から第一次大戦へ流れ、日本は大正デモクラシー、そして未曾有の好景気を迎えていました。富国強兵の時下にあって銅の需要は大幅に拡大しました。わずか7〜8年で、これだけの大規模な事業者が県北の寒村に出現したことは、現代のベンチャー企業がシリコンバレーのような地域に急成長したことに例えられかもしれません。
大雄院全景
 一方、こうした陽の部分だけではなく、日立鉱山の急発展は、地域に大きな影の部分ももたらしました。それが銅の精錬の際に発生する亜硫酸ガスによる公害=煙害の問題でした。
 日立鉱山が発展するにつれて、排出される鉱煙の量が増加し、周辺地域の農作物や森林資源が枯れるなど、大きな被害が発生していました。喘息など人的被害や家畜などへの影響も無視できなくなりました。
 日本鉱業は被害が顕在化するごとに、周辺住民に対する金銭的補償に誠意をもってあたってきました。
 しかし、入四間地域など、製鉄所に近い集落における被害は深刻を極め、武力による住民蜂起にも発展しかねない一触即発の状況となっていました。

【住民代表・関右馬允青年と鉱山側の担当・角弥太郎】
 このような中、入四間(いりしけん)の住民代表として活躍したのが弱冠23歳という若さで「入四間煙害対策委員長」となった関右馬允(せき・うまのじょう)でした。
 新田次郎の小説「ある町の高い煙突」の主人公・関根三郎のモデルとなった関右馬允は、現在のひたちなか市枝川に生まれ(1888年、明治21年)、久慈郡中里村入四間の関家の養子となりました。当時の太田中学校(現県立常陸太田一高)卒業し、一高(現東京大学教養学部)への進学が決まっていましたが、煙害問題の発生とともに、地域住民と自然を守るために進学を断念し、住宅運動に青春をかけました。

 日立鉱山側の煙害対策の中心者とした住民と向き合ったのは、当時庶務課長であった角弥太郎(かど・やたろう)でした。「ある町の高い煙突」では、加屋淳平として登場します。
 角は、すでに久原とともに秋田県、小坂鉱山において煙害対策を経験しており、日立に着任するにあたっても、自分の使命は煙害問題の解決にあると覚悟していたそうです。角は「煙害に対する損害は、鉱業主が進んで賠償の責を果たさなければならない」という基本方針をたて、久原の同意を得て、地元住民との交渉に臨みました。
 さらに、煙害対策の一環としてオオシマザクラやソメイヨシノの植栽など、日立銅山の煙害で荒れた自然をサクラのまちとして再生させた実績は大きなものがあります。

日本鉱業の大雄院製錬所
【大煙突への道程】
 大雄院の製錬所ではその排煙を八角形煉瓦造の24メートルの高さの煙突から排出していました。煙害が激しくなったため、1911年(明治44年)に長さ1600メートルに及ぶ神峰煙道を築きました。この姿はあたかも神峰山を這い上がるムカデのような姿であったことから「百足煙道」(むかでえんどう)と呼ばれました。途中の十数箇所には排煙口を設け、分散排煙するもので、日立鉱山の技術者たちの苦心の産物でしたが、効果はなく失敗に終わりました。

 1913年には、政府の命令により、排煙を空気で希釈してから排出する煙突を造ることになりました。高さ33メートル直径18メートルの煙突が作られました。内部に6基の卵型の煙突を抱え込んだ独特の形態のこの煙突はその形から「だるま煙突」と呼ばれました。亜硫酸ガスの濃度は政府が示した値をクリアしましたが、排煙が外気と交わり温度が下がっていたため、拡散するどころか、地面に沿って製練所や周辺農地に拡散し、かえって被害を拡大させてしまいました。周辺住民は「阿呆煙突」と呼び、この失態を揶揄しました。

 煙害の激化に悩む角は、神峰山を中心とする気象条件と煙害の発生の因果関係を詳らかにすることにも労を惜しみませんでした。
 1908年に大雄院精錬所が稼動した、翌年1909年には、気象観測をスタートさせました。1910年には神峰山に気象観測を設置しました。さらに、観測拠点を増やし、当時としては他に類例をみない極地気象観測ネットワークを構築しました。
 ここで得られた気温、風向、風速などの気象データと作物の成育状況などを総合的に判断し、煙害が予想され、または発生した際は、溶鉱炉の出力を下げる「制限溶鉱」を実施しました。この制限溶鉱は住民に知らせることはありませんでした。当時の増加する溶錬鉱量ととも激化する煙害を防ぐことは出来ませんでした。

【世界一の大煙突の建設】
建設中の大煙突 だるま煙突の失敗により、ますます深刻化する煙害により、住宅の不満は爆発しかけていました。
 日本鉱業の創始者・久原房之助は、火山が高い噴煙を吹き上げても、ほとんど煙害をもたらさないことや、日立鉱山の前に携わった小坂鉱山の経験から、高い煙突から煙を排出すれば、ほぼ着地することなく、排煙を遠方に拡散できるとの確信を抱いていました。
 しかし、当時の専門家の常識は煙をできるだけ薄くして、低い煙突から排出して煙を狭い範囲にとどめることが、煙害対策の基本であるとされていました。そのため久原の唱えた高い煙突による高所拡散は受け入れられませんでした。
 だるま煙突の失敗を受け、久原は高い煙突の建設を決断します。失敗すれば、日本鉱業の経営自体も左右しかねない重い判断を下だしました。
 1914年(大正3年)、久原は幾多の反対論を退け、政府を説得し、「日本の鉱業界の試験台」として、大煙突の建設に踏み切りました。
 当初、久原は煙突の高さを、約110メートル(350尺)としていましたが、高層気象観測や風胴実験等の研究成果を踏まえ、約151.5メートル(500尺)に設計を変更しました。さらに計画途中で、アメリカのグルートフォルス製錬所の煙突より5フィート高い155.7メートル(511フィート)に変更して、世界一の煙突として誕生しました。

 1915年(大正4年)3月13日、日立の大煙突が完成しました。大空に煙が吐き出されると、製錬所周辺にたれ込めていた煙が消え、これを目にした角はのちに「手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜び」と感激を露わにしています。その後、大煙突と制限溶鉱の対策があいまって、煙害は激減していきました。
 日立の大煙突は第2次大戦の戦禍を乗り越え、脱硫施設の完成する1951年(昭和26年)までその役割を全うしました。
 その後も大正、昭和、平成の3代超えて操業を続けてきた大煙突は、1993年(平成5年)2月19日、突然およそ54メートルを残して倒壊しました。多くの市民がそのニュースに驚き、悲しみを禁じ得ませんでした。「日立市民を見守ってきた大煙突は、倒れる時も、後に倒れて被害を出さなかった」と、語り合いました。

日立の大煙突
【大煙突建設からさくらの植樹、環境の再生を目指して】
 大煙突の建設、気象観測施設の整備、脱硫施設の開発などの煙害対策と共に、日立鉱山の角弥太郎は、日立の自然を再生する取組みを行いました。
 角は1909年(明治42年)に農事試験場を設置しました。現在の日立市本宮町にあったこの試験場では、煙と植物の間の因果関係をさぐり、適正な補償に役立てるとともに、煙害に強い植物、苗木の育成などの研究を行いました。
 また、1908年(明治41年)には、伊豆大島の噴煙地帯にオオシマザクラが自生することに着目して、角は鉱山の社宅周辺へ、オオシマザクラの植栽を行いました。

 農事試験場において、オオシマザクラ等の煙害に強い樹木の苗木育成に成功し、1914年(大正9年)に、農事試験場で栽培したオオシマザクラの苗本は、119万本と報告されています。
 1915年(大正4年)の大煙突建設によって被害状況が一変。角は今まで住民の補償に費やしてきた予算を自然環境の回復に使いました。オオシマザクラ、ヤシャブシ、スギ、ヒノキ、クロマツなどの植樹を開始しました。およそ18年にわたる植林の面積は延べ1,200町歩(約1,190ヘクタール)に達し、植えられた苗木は、概算500万本を超えます。そのうちオオシマザクラの植林面積は合計595町歩と報告され、260万本が植林されたと推測されます。日立鉱山による植林とともに、周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われました。1915年(大正4)度の日立村ほか17か村に対する29万本をはじめ、1937年(昭和12年)までの23年間に、約500万本の無償配布が行われました。そのうちオオシマザクラの苗木は72万本におよびます。

 オオシマザクラの苗木がうまく育つようになると、農事試験場の担当者は、この苗木にソメイヨシノの苗を接ぎ木して、桜の苗木を大量に作り出しました。角は、この桜の美しさに着目し、1917年(大正6年)頃、社宅や学校、道路、鉱山電車線路沿いなどに約2000本の桜を植えさせました。これが市内の桜並木の原点となりました。
 日立市の桜は、ただ美しいだけではなく、その背景に地域の煙害克服の歴史と、環境回復の悲願のもとに懸命に努力を重ねた人々の歴史が秘められているのです。

日立のさくら