県立多賀高校入学式
 4月9日、茨城県立多賀高校の卒業式が行われ、井手よしひろ県議は来賓を代表して祝辞を述べました。井手県議は、映画「ある町の高い煙突」(松村克弥監督)の撮影がいよいよ始まったことを受けて、日立の大煙突をめぐる若者の姿を通し、多賀高校の校是「文武不岐」について語りました。以下、祝辞の原稿を掲載します。

平成30年度茨城県立多賀高校入学式祝辞
 ただ今、ご紹介を戴きました茨城県議会議員の井手よしひろです。
 厳しい試練を乗り越え、多賀高校入学の栄冠を勝ち取った新入生の皆さま、保護者の皆さま、ご入学誠におめでとうございます。
 この晴れの門出に当たり、一言お祝いの言葉を申し上げます。
 
 現在、昭和の文豪・新田次郎の名作「ある町の高い煙突」の映画制作が進んでいます。この3月には満開のさくらの下、撮影がスタートしました。5月から本格的な撮影に入り、来年春の上映を目指します。
 この「ある町の高い煙突」は、今から100年前、この日立の街で命をかけて環境破壊と戦い、住民の生活と地域の環境を守った若者達の物語りです。
 明治38年、この地に日立鉱山が開業しました。やがて鉱山の宿命とも言える「煙害」が発生。亜硫酸ガスが山を荒らし、農民たちの命である作物までも奪っていきました。
 そこで、立ち上がったのが地元の若者、関右馬充でした。右馬之丞は郷士であった名家に生まれ、地元の高校を卒業し、東京大学教養学部に合格。前途洋洋の未来が待っていました。
 祖父がその煙害による心労で、病に倒れ、右馬之丞は誓います。「おれは村に残る。祖先の墓と祖父様の遺体を汚した、この煙を絶対に許すことはできない!」と、
右馬之丞は東大への進学を断念し、地元住民とともに日立鉱山との苦闘のドラマに青春を賭けます。
 この右馬之丞の情熱を受け止めたのが、日立鉱山庶務課長だった角弥太郎です。
 この2人を中心に、住民と企業は争うのではなく、粘り強い話し合いと試行錯誤を繰り返し、煙害に立ち向かっていきました。そして、日立鉱山創業者の久原房之助の提唱で日立の大煙突が建設されたのです。大煙突は、当時世界で最も高い155・7メートルで、CSR(企業の社会的責任)の原点ともされています。

関右馬允 ここで注目していただきたいのは、このドラマをつくりだした主人公達の年齢です。
 関右馬允が、被害者の代表として鉱山と向き合ったのは18歳から20代半ば、角弥太郎は30代後半、久原久之助も30代後半、久原のもとで日立製作所を創業した小平浪平は30代前半でした。
 日立の大煙突の物語を紡いだのは、高校を卒業して間もない青年達だったのです。
 日立の若き先人は、地域を守ろう、新しい日本をつくろうと各々の志を掲げ、一途に前へ前へと進み続けました。
 皆さんには無限の可能性があります。歴史を拓く大きな力があることを確信してください。

 そして、このような偉大な歴史を築く基(もとい)となったのは、高校時代3年間の学びと鍛えであったことは言うまでもありません。
 右馬之丞は高校の課外授業で英語会話を学び、外国人技師との出会いが住民運動を指導する原点となりました。武道にも優れ、大坪流の馬術をたしなみ、日立市入四間の関家より太田一高まで、愛馬「玄月」を駆って通学していました。剣道の腕前も師範級でした。
 国立大学協会の会長・松本紘京都大学総長は、「青春時代の経験が、その人の人格のほとんどを形成します。感受性が高い高校時代にたくさんの知識を貪欲に吸収し、多くの経験をしてほしい。高校生には、打算することなく、目の前のことにしっかり努力を傾けてほしい。高い山だけ見るのではなく、足元を見て一歩一歩進むことです。好きな書物があればそれを読む。好きなスポーツがあればそれをやる。自分が決めたことを、それも一つに偏らずコツコツやることが大事です。花は必ず開くと信じて」と語っています。

 今、多賀高校に入学する皆さん。多賀高校の校是は「文武不岐」です。今日より、多賀高校生という誇りと、常識にとらわれず、未来を開いていこうという気概をもって、生涯の基盤をつくる3年間を過ごしてください。皆さんの新たな高校生活に栄光あれとお祈りし、お祝いの言葉といたします。
 本日は本当におめでとうございました。