ひとりの人間として〜ハンセン病訴訟「控訴断念」への道のり〜
 2001年6月、ハンセン病問題の全面解決。坂口力元厚生労働大臣(公明党)の決断。
 9歳でハンセン病を発病。その日、離島の療養所へ。
 何年も「母に会いたい」と泣き暮らしたが、会えずじまい。亡くなったことさえ知らされませんでした。
 その後、同じ入所者と結婚。やがて子を宿すが、妊娠8カ月で強制的に早産させられ“殺された”。「小さいけど、元気な産声でした。自分の胸に抱きたかった。その時の泣き声が最初で最後。あの泣き声がいまだに耳から離れません」。想像を絶する話でした。
 それまで赤ペンでメモを取っていたの坂口厚労相の手が突然、止まりました。坂口は泣いていました。── 2001年5月14日、ハンセン病国家賠償訴訟の原告団との面談で、元患者の老女が自らの半生を語った時の出来事です。
 坂口は元患者らに深々と頭を下げ、謝罪の意を表した。「誠に申し訳ない思いです」。そして心に誓います。「絶対に控訴すべきではない」と。
2018年8月、大島青松園の慰霊碑
 熊本地裁の「国が全面敗訴」の判決に対し、当時の官僚の意見は「控訴すべし」が大勢でした。自民党幹部からも「控訴後に和解」といった声が流されていました。
 だが、坂口の「この裁判は終わらせるべきだ。元患者の皆さんに『大変だったが、生きていて良かった。最後は報われた』と思ってもらえる最後のチャンスではないか!」との思いは微動だにしませんでした。
 そして、運命の5月23日。その朝の毎日新聞1面には「坂口厚労相が辞意」という見出しが躍っていました。官邸に向かう車中の坂口の胸ポケットには、この朝認めたばかりの「辞表」が忍ばされていました。
 朝9時、官邸で官房長官の福田康夫氏が口火を切りました。「改めて、お考えを聞きたい」。坂口が答えます。「控訴には絶対に反対です」。福田「それは、厚労省の考えですか?」。「官僚たちの考えは別です」と坂口。福田が重ねて聞きます。「大臣の考えと、官僚の考えと、どちらが厚労省の意見ですか?」。坂口は毅然として言い切ります。「私が厚生労働大臣です。私の考えが厚労省の意見です」と!
 小泉首相が原告団に面談したのはその日の夕刻。その直後、「控訴せず」との見解を政府は発表しました。
 「控訴せず」の政府決定を受けて6月1日、坂口は改めて原告団代表に会い、正式謝罪しました。その後、坂口と厚労副大臣の桝屋敬悟(公明党)らは手分けして全療養所施設を訪問し謝罪しました。
 『ハンセン病訴訟、控訴断念』は、公明党の「命を守る政治」を具現化した出来事でした。

(写真は、2016年8月撮影。国立療養所大島青松園のハンセン病患者慰霊碑。井手よしひろ県議撮影。本文記事は、2007年2月9日付公明新聞をもとに作成しました)