関右馬之丞と角弥太郎
 新田次郎の名作「ある町の高い煙突」が、松村克弥監督の手で映画化され、6月中旬から全国ロードショー公開の運びとなりました。「ある町の高い煙突」に描かれた物語は、日立市発展の原点であり、日本の産業史の黎明期を彩る出来事です。住民と企業、開発と環境保全、個人の権利と地域社会の調和など、まさに持続可能なまちづくりのモデルケースともいえます。
 日立市には「日立市名誉市民の称号に関する条例」に基づき、名誉市民制度があります。
 その第1条(目的)には「この条例は、社会の進歩に貢献をし、その功績が著しく、ひとしく市民に尊敬される者に対し、日立市名誉市民の称号を贈って、これを顕彰することを目的とする」とあります。
 日立市政80周年の節目の年に、日立市の功労者といえる関右馬允氏と角弥太郎氏(以下敬称略)に、日立市名誉市民の称号を贈り、改めてその功績を顕照すべきと提案します。

 今から遡る114年前、1905(明治38)年、日本鉱業の創業者・久原房之助は赤沢銅山を買収し、その名を地名である「日立村」にちなんで「日立鉱山」と改称し、近代的な鉱山の経営に乗り出しました。
 日立鉱山は、当時の最新技術による探鉱をすすめ、1907(明治40)年末までに、鉱床を次々と発見。銅の埋蔵量の豊かさを確信した久原は、他の鉱山の鉱石を買い入れて製錬することを視野に入れた大規模製錬所建設を計画し、1912(大正元)年までに合計10基の溶鉱炉を完成させました。
 日立鉱山が発展していった一方で、精錬所で排出される鉱煙の量が増加し、周辺地域の農作物や草木が枯れるなど、大規模な煙害が発生しました。特に、入四間などの製錬所に近い集落における被害は深刻を極めました。
 「ある町の高い煙突」の主人公のモデルとなった関右馬允は、1911(明治44)年、23歳という若さで、入四間の住民代表「入四間煙害対策委員長」に就任しました。地域住民をとりまとめ補償交渉にあたり、被害の実態を調査・研究した上で要求案を提出、また鉱山側とともに被害の実測や農業技術向上に積極的に協働するなど、公平かつ平和的な解決に奔走しました。

 一方、日立鉱山の角弥太郎は、自分の使命は煙害という難問題の解決にあるとして初代庶務課長に着任。関右馬之丞ら住民に真義をもって対応しました。「予想される煙害の補償契約」「精神的被害への補償」「1000万本の植林による自然回復」など、今日でも驚くばかりの施策により解決に導き地元の厚い信頼を得ました。会社内に煙害などの問題を地元とともに解決する組織である地所係を設置、その試験研究機関として1909(明治42)年に、日立村大字宮田字福内(現在の日立市本宮町)に農事試験場を設置しました。この試験場は、煙と植物の間の因果関係をさぐり、適正な補償に役立てるとともに、優秀な耐煙性植物の開発、苗木の育成などに大きな役割を果たしました。1908(明治41)年には、伊豆大島の噴煙地帯にオオシマザクラが自生することに着目した角は、鉱山の社宅周辺へ、オオシマザクラの試験植栽を行っています。

 煙害克服のために鉱山はさまざまな方法を検討し実行しました。煙害解決への道のりは険しいものでした。そのような中、久原は、火山が高く煙を噴いてもさほど煙害をもたらさないことや、日立鉱山の前に携わった小坂鉱山での経験から、煙突を高くすれば煙は悪天候の場合を除いて、ほぼ接地することなく遠方に拡散すると確信していました。しかし当時は、煙をできるだけ薄くし、低い煙突から排出して、煙を狭い範囲に、とどめることが煙害を軽減する最良の方策であるの考え方が、政府や学者、業界の常識となっていたため、久原の考えは受け容れられませんでした。久原は部下や株主の反対論を退け、政府を説得し、「日本の鉱業発達のため一試験台」として、「大煙突」の建設に踏み切り、1914(大正3)年12月20日、当時世界一の高さ155.7mの大煙突が完成した。
 翌年3月、大煙突から煙が吐き出されると、製錬所周辺ににたれこめていた煙が消え、これを目にした角はのちに「手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜び」と感激を表現している。その後、大煙突と気象観測をもとに炉の操業率を変えて煙の量をコントロールする「制限溶鉱」の対策とあいまつて、煙害は激減していきました。

 農事試験場においては、煙害に強い樹木の研究が続けられ、オオシマザクラ等の苗木育成にも成功しました。1914(大正3)年に農事試験場で栽培したオオシマザクラの苗木の数量は、約120万本と記録されています。
 1915(大正4)年3月の大煙突建設によって被害状況が一変すると、角はただちに自然環境を回復させるために、オオシマザクラ、ヤシャブシ、スギ、ヒノキ、クロマツなどの植林を開始しました。
 その後、約18年に渡る植林の面積は延べ1200町歩(約1190ha)に達し、植えられた苗木は500万本を超えました。そのうちオオシマザクラの植林面積は合計595町歩と報告され、約260万本が植林されたと推測されます。
 日立鉱山による植林とともに、周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われました。1915(大正4)年度の日立村ほか17か村に対する29万本の配布をはじめ、1937(昭和12)年までの23年間に、約500万本の無償配布が行われた。そのうちオオシマザクラの苗木は72万本におよぶと言われています。こうした環境再生の取り組みが、現在のさくらのまち・日立の礎となっています。