足尾銅山の大煙突
 映画「ある町の高い煙突」を応援する会の活動に携わり、日立市発展の基となった日立鉱山の歴史を学ぶ機会を得ました。全国の劇場でのロードショーが一段落を迎えた8月上旬。松村克弥監督が描いた、奇跡の実話をより客観的にみてみたいと、栃木県の足尾鉱山跡地を訪ねました。

日立市の奇跡の歴史『大煙突』
 大煙突の歴史は、創業者・久原房之助が1905年に日立鉱山を開業したことから始まります。日立鉱山は、最新式の探鉱・削岩技術・製錬法の採用などで、開業後数年で日本を代表する大銅山(四大銅山)へと躍進し、以来、1981年の閉山までの76年間、日本の産業発展、経済成長に貢献してきました。
 1910年には初代工作課長の小平浪平の進言で、電気機械製作の工場も造られました。これが総合電機メーカー日立製作所の淵源です。
 しかし、銅製錬で発生する亜硫酸ガスで、地元では大きな問題が起きました。特に、豆やタバコは煙に弱く、周辺住民との共生を重視していた日立鉱山は損害賠償に応じていたものの事態は改善しませんでした。
 煙突はできるだけ低くして、途中で空気と混ぜて薄めてから排出するというのが、当時の煙害対策の主流。日立鉱山も製錬所の操業開始時に造った煉瓦造りの八角煙突(高さ18メートル)に加えて、西側の神峰山の尾根伝いに全長1.6キロメートルもの煙道(百足煙突)を設置した。煙道の途中に開けた穴から煙を流す仕組みだ。
さらに政府の命令で高さ36メートル、内径18メートルのずんぐりしたダルマ煙突を建てたりしたが、一向に効果をあげることができなかった。ダルマ煙突はかえって煙害を増大させたので「阿呆(あほう)煙突」と呼ばれました。
 そこで久原は「思い切って高い煙突を造り、上空で拡散させたら」と発想を転換。久原は社内外の反対の声を押し切り、「この大煙突は日本の鉱業発達のための一試験台として建設するのだ」と、1914年建設に着手しました。
 大煙突は、大雄院という寺の跡に作った製錬施設の裏手の山の斜面、海抜325メートルの地点に建設。鉄筋コンクリート製で高さは500尺、155.7メートルありました。建設費は30万円。当時、米国モンタナ州の製錬所の煉瓦煙突152メートルを抜き去り、世界一の高さの煙突となりました。3万本にもなる丸太と5万4000把のしゅろ縄で作った足場で延べ3万6000人の人力を動員してコンクリートをこね、注入していく本格的なコンクリート製煙突です。
 久原の志を受けて、工事は異例の速さで進捗。着工後わずか9カ月足らずで完成し、翌1915年の3月から稼働しました。同時に製錬所の周囲10キロメートルに設置した観測所で気象をチェック、風向きなどで煙害が悪化しそうになると操業を大幅に抑えるなど煙害防止に努め効果を上げました。
 日立の名物となった大煙突、煙害克服に努力した会社と当時の地元住民の葛藤の様子は直木賞作家の新田次郎の小説『ある町の高い煙突』で全国的にも知られるようになりました。
 そして、今年、煙突建設から100年余り、新田次郎の小説発表(1968年)から50周年、日立市市政80周年の節目の年に、松村克也監督の手で『ある町の高い煙突』は映画として蘇りました。

足尾銅山本山精錬所
日本の公害の原点『足尾鉱毒事件』
 銅山で発生した公害問題は、主に銅鉱石の採掘にともなう廃水や鉱滓などによる水質汚染と、銅の製錬にともなって発生する亜硫酸ガスによる大気汚染に起因します。汚染によって山林、農産物、漁業被害を中心に深刻な被害が発生します。また、銅山周辺の山林は、燃料や資材として利用するための乱伐と銅の製錬による大気汚染による枯死によって荒廃し、それが水害を引き起こすという問題も生じました。
 足尾銅山では、足尾鉱毒事件といわれるように、水質汚染および水害にともなう渡良川瀬流域の農作物被害が主な問題でした。それに対して、日立鉱山では、煙害事件といわれるように大気汚染にともなう山・林農作物被害が主たる問題でした。
 これらの公害問題が顕在化し始めたのは、それぞれの 銅山において近代化が推進され、また有力な鉱脈の発見などによって、生産量が飛躍的に急増した時期です。足尾銅山では豊かな鉱脈(鷹の巣直利、横間歩大直利)が発見され生産量が急増した1880年代半ば。日立鉱山では操業開始後まもなく富鉱が発見され、生産量が急増した1900年代半ばごろです。近代化の推進は、従来と比較して飛躍的な生産量の増大に成功す一る方で、かつてないほど大規模な公害問題を引き起しました。
 高濃度の亜硫酸ガスは草木の葉を漂白し、ついには枯死させます。亜硫酸ガスの襲来に樹齢数百年の大木も枯れ、まったく再生不可能となります。とくに足尾地域は、年間2000ミリ近い降雨量を記録する日本でも有数の多雨地帯であるために、樹木を失った表土はまたたく間に流出し、保水能力ゼロのはげ山となってしまいました。こうした森林被害に加えて、亜硫酸ガスとヒ素は牛馬をはじめとする家畜類を直撃し、さらに住民の健康被害をもたらしました。
 足尾地域は、古河鉱業が銅山経営に成功する以前は、日光山地に連なる鬱蒼たる森林でした。煙害に加えて古河興業が製錬用の薪炭材を大量に伐採したことで、山野の荒廃が進みました。渡良瀬川の源流地域の荒廃により、少量の降雨も下流の洪水につながり、逆に晴天が続くと旱魃が発生しました。鉱毒による農作物の被害は、洪水時ほど甚大となりました。降雨があるといたるところに野積みにされた鉱滓やまだ銅分をたくさん含んだ廃石堆積場から、鉱滓や廃石の一部、あるいは酸性水に溶けた重金属などが流出します。
 特に足尾地域では台風が襲来すれば1時間に100ミリメートル以上の降雨も珍しくなく、そうした場合には大量の鉱毒が流出することになります。これに加えて、廃石や鉱滓の捨て場を欠いていた足尾銅山では、1890年代には渡良瀬川の出水を利用してこれらの廃石や鉱滓をダイナマイトで爆破するなどして下流に流していました。こうして、下流の鉱毒被害はいっそう激甚になりました。その被害面積は10万ヘクタールに及びました。

足尾銅山と日立鉱山/被害住民補償、公害防止策を比較する
 公害被害住民への補償を比べてみると、足尾銅山が被害者に対して支払った補償は1892〜93年と、1894~96年の2回にわたる示談契約において支払われた計約16万8000円のみでした。この金額は、被害を受けた農民にとってはとても満足がいくものではありませんでした。
 例えば、1回目の示談金は栃木県安蘇郡植野村・界村・犬伏町の被害農地面積1163haに対する示談金(賠償金)は1万円であり、10aあたり1.85銭9厘で年間の米作収入の17分の1〜20分の1程度であったと計算されています。
 2回目の示談金は、良くて10aあたり1円40銭であり、悪質な第3者の介入により、農民本人に渡ったのは25〜40銭で示談に至ったといわれています。さらにこの示談の条件は、永久に足尾銅山を経営していた古河鉱業に苦情を言わないという永久示談を強制したものでした。
 一方、日立鉱山は、被害発生後の早い段階、被害への補償を実施してきました。被害農民と個別に行った直接交渉に基づいて、山林と農作物被害を中心に、肥料の補助や、馬の飼養への補償など多岐にわたる補償が支払ねれていました。その総額は、1907年から1944年まで37年間で約311万円でに上ります。

 技術的対策としては、1915年に建設した当時世界最高となる高さ約156mの大煙突(高層煙突)と、気象観測にともなう制限溶鉱の組み合わせによって、被害を大きく減少させることに成功しました。気象観測に関しては、当時としては異例なほど大規模な気象観測網を設置しています。また、大煙突の建設に至るまでに、神峰煙道など複数の煙突の設置や、亜硫酸ガスから硫酸を製造するといった化学的手法を実施するなど、試行錯誤を繰り返しました。
 そして何より特徴的なのは、こうした補償を、日立鉱山が自らの責任を認め自主的判断で行ったという点です。古河鉱業は、1974年5月、国の公害等調整委員会の調停案(15億5000万円の補償金の支払いや鉱毒流出防止施設の改善、農地の改良、公害防止協定の締結など4項目)に、企業側と被害者側が同意するまで、鉱毒被害の責任を認め、寄付金ではなく、損害賠償金としての補償金の支払い行うことは一度もありませんでした。

足尾銅山のトロッコ観光
公害防止への取り組み姿勢/責任を当初から認めた日立鉱山
 足尾銅山における公害対策は主として、政府による鉱毒予坊工事命令に基づくものです。これは足尾銅山が自発的に実施したものではありません。
 足尾鉱山は、1896年から1903年にかけて、5回にわたって国から鉱毒防止予坊工事命令が出されました。特に第3回の予防工事命令(1897年5月)が最大のものであり、「亜砒酸及煙煤の凝結沈降と硫酸製造その他脱硫による亜硫酸ガスを除く」脱硫塔、「沈澱池濾過池」、「泥渣堆積所」、「烟道及大烟突」等の建設でした。これらの工事には期限が設定されており、遅延した場合には鉱業停止という条件がつけられた厳しい内容でした。これに対して、足尾銅山は、約104万円を投じて期限内に対策を実施しました。
 しかし、この命令書の内容は公害防止にはほど遠いものでした。内実は、命令責任者が予防工事完成後、足尾鉱業所長に就任したことにみられるように、政府と古河鉱業との癒着の構造が垣間見られます。とくに脱硫塔は全く機能せず、製錬所上流の松木村は1901年に壊滅(全村移転)します。
 足尾銅山における、被災住民と国や事業者との軋轢は、「足尾鉱毒事件」として有名です。栃木県選出の衆議院議員・田中正造が、公害防止と被害住民の救済を求めて闘争を繰り広げた歴史は、日本の反公害運動の原点として語り継がれています。
 足尾銅山鉱毒事件が社会問題化した時期は、1890年頃から2010年ごろまでの約20年間です。被害住民の運動がもっとも活発化したのは1896年から1902年にかけてでした。この日清戦争(1894〜95年)から日露戦争(1904〜05年)の間は、繊維産業を中心に産業が発展した時期です。軽工業部門の発展に比し、製鉄や造船などの重工業部門はまだようやくその発展の基礎がつくられた時期であり、かろうじて日本が勝利した日清戦争で、清国から獲得した2億3000万両(約3億6000万円)という、当時の日本の財政規模の3倍にも上る巨額の賠償金は、軍備の拡張と重工業の育成に投入されました。
 鉱毒被害地の農民たちは「足尾銅山の鉱業停止」を訴えて、「押出し」(一種の農民一揆:農民が一挙に上京して請願運動を行う)が行われたのは、1897年のことです。当時の藩閥政府に批判的な新聞人や民党派議員、インテリ層の大部分は被害住民を支援し、世論は沸騰しました。鉱毒事件の社会問題化という事態にたいして、富国強兵を第一義的とする政府は、第1次鉱毒調査会を設置して古河に鉱毒予防工事を命令し、世論と被害住民の運動の鎮静を図りました。しかし、農民たちが繰り返される鉱毒被害に怒り、4度目の「押出し」を決行したとき、政府は、参加者を弾圧しました。衆議院議員を辞職した田中正造は、天皇への直訴を試みます。政府はこれに対して第2次鉱毒調査会を設置して、鉱毒問題を治水問題へとすりかえていきました。治水対策を中心とする政府の鉱毒処分案でしたが、田中正造の没後、闘争と刑事弾圧に疲れた農民たちはしだいにこれを受け容れ、鉱毒反対運動は遊水池設置計画地点の谷中村周辺だけにしぼられて行きました。
 
 さて、日立鉱山は、その当初から住民との対応の手法が異なっていました。 
 日本鉱業の創業者・久原房之助(くはら・ふさのすけ)の独創性は、「一山一家」思想を地域社会全体に普遍し、それを基盤に企業を成長させるという明確なビジョンを持っていたことです。鉱山の労働者も周辺住民も「山の家族、縁者」であり、そこで起きた問題は「家長」の責任で円満に処理するという考え方です。法律に基づく責任範囲の明確化などは不要であり、即断即決できるのです。
 また、被害者との交渉が比較的円滑に進められた理由は、被害者側リーダーに関右馬之允(せき・うまのじょう)という温厚で才知ある若者がいたことと、鉱山側の補償担当者として角弥太郎(かど・やたろう)という逸材を登用したことです。
 角弥太郎は広島県府中市の出身で、日立鉱山入社前は、秋田県の小坂鉱山で公害補償問題を担当していました。1907年、日立鉱山社長の久原房之助に呼ばれ日立市に移ります。角は「法律の範囲内で対応するだけでは企業倫理が確立できず、事業の発展は望めない」という、企業のCSRに準ずる考え方を持っていました。
 被害住民への補償額がどの程度であったかは具体的にはよくわかりませんが、被害者が十分に満足できる額であったようです。関右馬之允によれば、鉱山からの補償金を集落で分配する際、その場は盆と正月が一度に来たような喜びで、農民のひとりが「この金を全部貰ってもよいのか」と驚くような額が支払われていたらしい。
 関右馬之允が書き起こした「日立鉱山煙害問題昔話『日鉱関係忘れ得ぬ人々』」には、鉱山側の誠意ある補償が実施されたことが具体的に述べられています。それには、単に被害への補償というだけにとどまらず、様々な配慮が行われていたことが明らかにされています。被害への補償は精神的不安も考慮し、実被害の一割前後の追加補償が実施されたとしています。また、農林産物の生育を増強して収穫減少を防止する方針を日立鉱山側が打ち出して、金肥が間接補償として供給されたことや、山林の落葉補償が現物で給付されたことが、後に被害地の地力減退防止に役立ったことが述懐されています。
 1911年には大被害が発生しましたが、鉱山側の係員が、被害地の日用消費作物の供給補償や水稲、畑への補償等を関と相談して対応することで暴徒化の危機を回避したこと。1920 年に農作物が暴落して地域が疲弊した際には、被害地救済として補償金を減額せずに据置を鉱山側に訴えたのに対して、鉱山側はこれを受け入れたこと。その他にも入四間地区は様々な便宜を受けたことが記されています。例えば、鉱山の工員の採用では、関右馬之允が頼んだ場合、思想調査なしで体格検査だ けで採用されたことや欽料水道の整備改善や神社関係の工事、学校の施設、公共事業、農地の酸性度検査などに至るまで種々便宜を受けたとしています。日立鉱山と入四間地域とは、「人事縁組関係でも経済関係でも緊密なものとなった」と述べています。
 さらに、日立鉱山の職員の服装が簡素なものであったことが、補償交渉の際、被害者側に圧迫感を与えず有効であったと指摘しています。関右馬之允は「日鉱職員は、会社の方針として頗る質素であった。洋服は、課長始め全員詰襟で、帽子は鳥打帽(夏は麦稗のカンカン帽)に限られて、背広服は病院の先生のみであった。殊に煙害係員は最も質素な服装で…この田舎向けの服装で農山村民に接した事は、被害者達に気安ささえ覚えさせて精神的融合には、非常に効果が有った訳で、流石に小坂で鍛えた課長の配慮は、定に奥床しかったと思ったものだ」と記載しています。

 近年、国際社会ではCSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)という言葉が語られています。企業は株主や消費者の利益に貢献するだけでなく、社会全体の利益に探するよう社会的責任を果たすべきだという考え方です。資本主義経済の観点だけで企業が利益追求に走れば、「見えないところで環境破壊を引き起こしたって構わない」というモラル・ハザードを引き起こします。そうしたモラル・ハザードに歯止めをかけるのが、CSRという観点に他なりません。
 さらに、2015年の国連サミットでは、SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)という目標が策定されました。2016年から2030年までの15年がかりで、国際社会が一致団結して取り組む壮大な計画です。
 企業の社会的責任CSR、持続可能な社会構築を目指すSDGs。こうした視点からみても、富国強兵の名の下に発生した深刻な公害問題に取り組んだ足尾鉱山と日立鉱山、両者の違いは小さくありません。
 CSRやSDGsという言葉すら誰も知らない時代に、日立鉱山でCSRとSDGsの教科書ともいうべき奇跡が生まれました。日立鉱山の歴史は、古今東西ほとんど類例がない誇るべき成功例です。足尾鉱毒問題のそれに比べ、周辺の山々も日立の街もさくらの花が万朶と香る工業都市として繁栄した事実が、「ある町の高い煙突」は奇跡の実話であることを雄弁に語ってくれています。