尾去沢鉱山の入り口
 8月27日、「ある町の高い煙突」に魅せられて、秋田県の尾去沢に来ました。
 尾去沢鉱山は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目に染み入り、地表近くで冷え固まった鉱脈型鉱床。鉱脈は500条あり、坑道を用いる坑内掘りによって採掘が進められました。南北3km、東西2kmの山中に、明治以降だけで700km、江戸以前を含めれば800kmの坑道が、鉱脈に沿って縦横に掘られました。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が産出されました。
 1889年に岩崎家に経営が移り三菱財閥が開発を行うようになってから閉山までの産出量は、銅30万t、金4.4t、銀155tと推定されています。
 1978年に閉山。精錬所跡地には選鉱場、シックナー(濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突等が残されていました。
 一部は、坑内や鉱山施設の見学や砂金取り体験のできるテーマパーク「史跡尾去沢鉱山」となっています。
尾去沢鉱山の坑道
 奈良時代から開発のはじまった鉱山は三菱の手によりフル稼働しました。近代化から戦後復興まで日本の産業に貢献し、尾去沢や小坂など秋田県北部で銅の国内生産量の半分以上を占めていた時代もあります。その鉱山も1978年に閉山されて、1200年の歴史に幕を下ろしました。
 現在は、三菱マテリアル傘下の株式会社ゴールデン佐渡が、観光施設として運営管理しています。
 坑道の内部は、堀跡も生々しく、地面にはレールの跡、迫力満点です。気温は、13度前後と半袖で入るには少し寒い位いでした。観光用の坑道は約1700m一本道です。1時間程度はかかります。いたるところに、分岐する坑道があり、立ち入り禁止の文字と鉄格子の向こうには、真っ暗な道が奈落の底まで続いているような錯覚に陥ります。
 断層の裂け目にマグマが噴出したために、細い鉱脈が垂直に伸びているのが尾去沢鉱山の特徴。その部分だけを効率よく掘るために、シュリンケージ採掘法という手法で、細く高く、人工的に掘った結果、幅2〜3m、高さ30mもの大空間が現出しています。

ワインセラー
 さらに先に進むと、安全祈願のお社や鉱山内での労働風景を、大変丁寧に再現された人形が展示されています。安定した温度と湿気を利用して、日本酒やワインの長期熟成も行っています。
 江戸時代には、南部藩がこの鉱山を管理。大層な富を生み出したことでしょう。高さ60cmほどの坑道を手で縦横に掘り進み、金の採掘を行っていました。特殊な労働環境のため、隠れキリシタンが入りこんだりしていたそです。坑内に掘られた十字架やマリア像のレリーフなども残っています。
 出口の急な階段は、バリアフリーとなっており、エレベーターが稼働しています。
 異空間を堪能して、売店の販売員さんが暖かいお茶を振る舞ってくれました。

 我が街日立には日立鉱山があり、日本鉱業(現在のJXグループ)が日鉱記念館を運営しています。素晴らしい産業遺産を展示する施設で、私は日本一の鉱山博物館であると確信しています。この日鉱記念館にも、模擬坑道がありますが、やはりその規模を実感するためには、尾去沢の施設を参考に、坑道を整備し一般開放を検討していただきたいと実感しました。

尾去沢鉱山の大煙突
 坑道の手前では、選鉱場跡、製錬所跡の風景も観ることができます。
 最大で月間10万トンもの銅鉱石を処理した国内最大級の選鉱場跡です。昭和53年(1978年)に操業を中止し、現在はその基礎の部分のみが残されています。また、製錬場跡は昭和41年(1966年)に操業を中止しました。残された煙突の高さは60mで土木遺産に認定されています。この煙突では、煙害を防ぐことはできず、製錬場が稼働していた時期は、煙害で周辺がはげ山となり遠くからでも望むことができました。
 また、鉱山で働く人達やその家族のために建設された娯楽施設「協和会館」もありました。東北地方で最大規模の舞台設備を持っており、中央からの芸能人による公演や映画の上映が行われていました。小坂の「康楽館」、日立の「共楽館」と同様の施設でした。