松木村看板
 映画「ある町の高い煙突」の制作や上映活動に携わり、日本の四大銅山と言われる足尾、小坂、別子に興味を持ちました。環境破壊と住民はどのように対峙したか、企業はどのように責任を果たしたか、日立銅山の歴史を検証するためにも、どうしても確認しておきたかったからです。
 8月末に訪れた足尾鉱山。その際、天候や日程の都合で行くことができなかった松木地区を、9月27日再度訪れました。
 日本最大の砂防ダムと言われる足尾ダムから、2キロ程度川に沿って歩くと、120年程前まで松木村という集落があった場所にたどり着きました。

 松木村は、600年もの歴史があり、大麦、小麦、大豆、小豆をはじめ野菜も採れ、村民は何不自由なく暮らしていました。江戸時代後期の記録では、37戸170人もの村人が支え合って生活をしていたとされています。足尾地区でも最も大きな集落でした。小麦、豆をはじめとする肥沃な共同の畑があり、養蚕が盛んで、奥深い森の中にある恵まれた土地であったそうです。
旧松木村お墓
 足尾銅山が近代的な鉱山として生産を開始することで、この村の生活は一変します。
 銅鉱山を掘り進めるためには大量の木材が必要で、足尾の山々では樹木の伐採が進められていきました。
 製錬所の煙害の影響が出はじめるのは、明治16年頃からで、まず桑の葉がチリチリになり、養蚕がだめになりました。明治30年には「鉱毒予防工事」として製錬所がいまの場所に合併され、大規模になったから煙害はますますひどくなりました。煙突が高くなり、被害が激化してしまいました。「煙力の強き故に、二里以内の草木は皆枯死し、青物は更になくなり」と記録に残ってます。
 偶然に起こった山火事の被害(1887年4月、村で毎年この日に行われていた畦焼きという畑の枯れ草を燃やす作業を行っていたところ、この火が山林に燃え移り、下流の赤倉、間藤付近までを焼く大規模な山林火災に至りました)をキッカケに、村民は鉱山に土地を売却し、離村することを検討し始めました。

 この時代、足尾銅山側は、精錬に使用する材木を伐採するために松木に林道をつくることを計画。予定地を購入しようとしたところ、残留村民らは全村譲渡でなければ応じないと主張、裁判にもなりました。
 残留村民らは、田中正造が会長を務める足尾鉱毒被害救済会に救済を求めて、田中正造本人も村民代表らと面会をしました。救済会の仲介もあり、1901年12月、足尾銅山側と交渉が行われました。松木の住民は、村全体の補償金として7万5千円を要求しました。鉱山側は3万円を主張。交渉の結果、残留村民24戸25名全員が、全村を銅山側に4万円で売却し、一年以内に移転することで合意が成立しました(ただし一軒だけは交渉がこじれ、50年ほど松木地区に住み続けました)。
 銅山側は買収した松木の土地を堆積場とし、鉱石くずなどを次々に捨てはじめました。
 1951年に旧松木村の下流部に足尾ダムができると、最後まで残った一軒も村を出て、松木村は完全に誰もいなくなりました。
 松木村に隣接する久蔵村、仁田元村も、同様に煙害で廃村となりましたが、いつごろだったのかは定かではありません。恐らく、松木村とほぼ同時期だったと考えられています。

 1950年代より、国による大規模な治山、緑化事業が始まり、現在も続けられています。

旧松木村

旧松木村

旧松木村

旧松木町を歩く