
12月1日、前から気になっていた北茨城市の歴史的なかんがい施設「十国堀」を訪れました。十石親水公園と取水口(加露沢取水口)をみて、その歴史の重みを肌で感ずることができました。
十石堀は、2019年9月、インドネシアで開催された国際かんがい排水委員会(ICID)第70回国際執行理事会において、茨城県で初となる世界かんがい施設遺産として登録されました。
今から約350年前、1669年(寛文9年/4代将軍・徳川家綱の治政)に十石堀は完成。用水路の延長約15km、取水水門2ヶ所、分水工2ヶ所、最大取水量毎秒0.36m3、受益面積は78haです。
十石堀が位置する北茨城市は太平洋に面していますが、市の8割以上は山がちで海岸近くまで山地と台地が迫っています。当時、この台地上にある農地は、水源が雨水のみであるため、毎年のように水不足によって農作物が収穫できないという被害を受け、農民たちは大変困窮していました。そこで、1668年に、庄屋であった沼田主計(ぬまた・かずえ)は、水不足の解消と新田の開発を目的として用水路の建設を計画し、この地域を支配する領主に願い出ました。ちなみに、寛文元年(1661年)に、水戸黄門として著名な徳川光圀公が、水戸藩の第2代藩主となりました。光圀は「定府」として江戸常駐を義務づけられていましたが、30年間の藩主在任中11回にわたって就藩帰国して水戸城に滞在し、領国経営に力を注ぎ、領民との接触に努めたとされています。まさに、この時期に十石堀は建設されました。
当時の技術水準では、水を大北川から取り入れて台地上へ送ることはできませんでした。そこで、農民らは協力し、水源を直線距離で6km、標高300mの奥深い山中にある大北川の支流に探し出し、そこから自然の地形を巧みに活用しながら、急峻な山の斜面に延長約13kmにも及ぶ用水路を計画しました。計画を立案した当初、領主は、難工事が予想されたため、建設を認めませんでしたが、沼田主計の命を賭した決意に動かされ、建設を認めました。
工事は1668年の8月に始まり、農民らの積極的な協力によってわずか約半年後の1669年3月に完成。建設資材は農民が自分たちの山から調達し、当初200両はかかるだろうという見積りを26両で完遂したという記録が残っています。江戸時代初期、領国経済の充実を積極的に推し進めた水戸藩の政策、年々かんばつに悩まされていた農民の願い、主計の思いが一体となって結実した快挙です。
領主は、十石堀の建設と新田の開発に功績があったとして沼田主計を称え、開発された新田のうち、主計にかかる租税を免除しました。主計が租税を免除された新田の米の収穫高が約10石であったことから、建設された用水路は十石堀と呼ばれるようになりました。
現在も十石堀の水は、松井地区、日棚地区、粟野地区の3地区で利用されています。用水路という歴史的遺産ですが、そこには時代を超える庶民の努力の歴史がありました。