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 NHKの大河ドラマ「青天を衝け」で、近代日本の資本主義の父とも言われる“渋沢栄一”が脚光を浴びています。特に、渋沢に縁がある茨城では徳川斉昭(烈公)、徳川慶喜(15代将軍)の評価が改めて高まっています。
 この渋沢に遅れること13年。茨城県下妻市(旧真壁郡黒駒村)に、茨城の近代史の父と呼ばれる“飯村丈三郎”が生を受けています。
 飯村丈三郎は、嘉永6年(1853年)。下妻市黒駒に生まれました。幼名は縫三郎。幼少期に近くの干妙寺(筑西市板橋)に預けられ、住職を務める亮天僧正から多大な影響を受けました。
 その後、儒学者の菊池三渓に学び、上京。明治10年(1877年)、24歳で故郷に帰って家督を継ぎ、戸長に任命されます。また森隆介らと「同舟社」を結成し、自由民権運動に加わります。
政界に進出し、明治14年(1881年)には県会議員、その後衆議院議員となり活躍します。
 県会議員を務めながら、川崎財閥の川崎八右衛門の後援を受けて、第六十二銀行(現常陽銀行)の再建や水戸鉄道(現JR水戸線)の取締役として鉄道敷設に尽力しました。
 明治24年(1891年)いはらき新聞社(現茨城新聞社)の社長として長年経営改善に努力する。この間、茨城県の文化・芸術の振興にも尽力し、岡倉天心ら五浦派の画家たちを物心両面に渡り支援し、文芸や茶の湯の世界でも活躍しました。
 晩年、私財をはたいて茨城中学校を創立(昭和2年:1927年)。茨城の人財育成に多くの業績を残しました。
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 飯村丈三郎は、真壁郡黒駒村(下妻市黒駒)の代々名主を務める飯村家の長男として生まれました。幼いころは病弱でしたが、父はこれからの時代は視野を広げるために学問が必要だと考え、丈三郎を黒子村(筑西市板橋)の千妙寺というお寺に預けました。
 ある時、住職の亮天僧正から「報恩感謝」ということばを聞きました。
 現在、茨城新聞に特集されている「茨城近代化の父・飯村丈三郎の生涯」によると、亮天僧正は、「村の庄屋になるならば何も稽古せずとも良い。何か少しやると、生意気になってしまうから、何も習わないで良い。ただ一つお前に教える事は、恩を知れ、ということである。人は恩を知らなければならない」と説いて聞かせました。亮天が言う恩とは、「仏教で説く『四恩』。つまり第一が「父母の恩」、第二が「主君の恩」、第三が「師の恩」、そして一番重要なのが「衆生の恩」を説いています。「『衆生の恩』とは社会恩であり、衆生から直接受けた恩は衆生に向かって報せねばならない。衆生は限りのないものであるから、衆生の恩を報ずるには、自分は誠心誠意の道を踏んで、そうして社会の人々の便宜、いわゆる公益を図なければならない」と、諭したといわれています。
 これが、丈三郎の一生を貫く原点となり、丈三郎が創立した茨城中学校(現茨城中学・高校)の建学の精神につながっています。

 明治の混乱期にあって自由民権運動に関わり、県会議員や国会議員として活躍していた丈三郎ですが、明治16年、当時の県知事から、経営が行き詰まっていた第六十二銀行(現常陽銀行)の頭取として銀行の再建に力を貸してもらいたいという要請を受けました。
 頭取になった丈三郎は、銀行で働いている人たちの力を信じ、「今後は諸君の力を借りで銀行の再建を図りたいので協力してほしい」と語りました。自分たちが辞めさせられるのではないかと思っていた銀行の人たちは、丈三郎の言葉に感動し銀行のために一生懸命働きました。その結果、銀行は5年ほどで立ち直りました。
 また、明治24年から昭和2年まで「いはらき新聞」(現茨城新聞社)の社長にも就き、当時、経営が苦しかった新聞社を見事に立ち直らせてもいます。

 大正12年に70歳で水戸に移り住みました。白内障にかかりほとんど眼が見えない状態となってしまいましが、晩年を次の世代の人財を育てること。教育に全力を傾注します。
 当時は県立の中学校は一つ(水戸一高)しかありませんでした。「自分は今までに多くの人からたくさんの恩を受けてきた。その恩に報いるよう報恩感謝の精神を実践したい。そのためにも、学校を創設して、少しでも多くの人に教育を受けてもらうことが必要である」と、丈三郎は、自分の財産を投げ打って中学校設立のための費用にあてました。
 昭和2年4月に茨城中学校(茨城高校)は開校。最初の入学式で丈三郎は「この学校を設立した目的は、全く、報恩感謝の念をもってつくったものであります」と語りました。
 丈三郎は、この年の夏、不慮の事故が原因で74年の生涯を閉じます。

 私は、飯村丈三郎について、ごく最近までその名を知りませんでした。下妻市の菊池博市長とポストコロナの地域活性化策について意見交換を行った際に、たまたま丈三郎の生涯が話題となりました。100年前、地域社会のため、国民のために奔走した人物が、茨城の地にもいたことを誇りに思います。
 こうした人物を、今こそ再評価し、後生に伝え、その土壌となった地域の魅力を全国に発信していきたいと思います。