別子銅山<東平>
 明治35年(1902年)頃までに、ほぼその基礎を確立した我が国の金属鉱業は、日露戦争(1904〜1905年)、第 1 次世界大戦(1914〜1918年)による国内市場の拡大と海外市場の好況によって、その規模を急速に拡大します。特に、足尾鉱山、別子鉱山に加え、小坂鉱山(愛媛県新居浜市)、新興の日立鉱山(茨城県日立市)の4つの銅山の発展はめざましく、日本の四大銅山と称されました。
 この四大鉱山は、鉱山が存在する地域社会にも大きな影響を与えました。人口の増加、電気、水道、下水、そして鉄道などの社会資本の充実など、その地域は大きく発展しました。一方、銅の生産やその精錬による河川の汚染や大気汚染(煙害)は深刻な被害を周辺環境や住民にもたらしました。地域社会の発展と環境破壊、その相反する課題を解決してきた過程が、こうした地域の歴史でもあります。
 そして、銅鉱山は20世紀後半に、その役割を終え相次いで閉山していきます。大いに発展した四大鉱山のまちは、地域経済の縮小、人口減少という厳しい現実を抱えて21世紀を迎えました。
 四大鉱山の歴史を学び、その教訓を後世に繋ぐことは、次の世代への大きな責任です。そして、その貴重な遺産は、地域の活性化の大きなツールとなります。
 このブログでは、日本の四大銅山(足尾鉱山、別子鉱山、小坂鉱山、日立鉱山)を概観してみます。最終は、四国・愛媛県新居浜市の別子鉱山です。
日本の4大銅山の生産量
4大銅山の生産量の推移
【別子鉱山の概要】
 別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山で、住友財閥の発展の基盤となりました。現在では、貴重な近代化産業遺産であり、世界遺産登録に向けて地元・新居浜市では運動が進められています。
 元禄年間1690年に発見され、1691年から1973年までの283年間で、65万トンの銅を生産し、日本の近代化に大きく寄与しました。65万トンという産出高は、栃木県の足尾銅山の82万トンに次ぐ、日本第2位の産出量であり、日本四大銅山の一つとしても知られています。
 最初の採鉱は海抜1000m以上の険しい山中であった。時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、坑道は全長700km、また最深部は海抜マイナス1000mにおよび、国内ではもっと深い坑道でした。
 別子銅山の鉱床は、変成岩(三波川変成帯)中に現れる層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)です。これは海底火山などの活動にもたらされた熱水鉱床の一種と考えられており、純度の高い黄銅鉱、黄鉄鉱が産出されていました。鉱石中の銅の含有量が多い特徴があり、高品位の物だと20%台にも達していました。
 1973年、別子鉱山は閉山しました。現在は、近代日本を支えた産業遺産として、新居浜市の観光に大きく貢献し、世界遺産登録を目指す運動が行われています。

別子銅山 
【別子鉱山の鉱害克服への取組】
 別子銅山は山に囲まれた狭隘な土地のため、1883年に精錬工程を、新居浜精錬所に移設して生産を開始しました。ところが付近の農作物に煙害による被害が発生、1894年被害農民が操業停止を求めて新居浜分店を襲撃するに到り、会社は被害農地を買い上げました。
 1895年農民代表は住友大阪本店と補償交渉をすることになりました。そこで時の鉱業所支配人、伊庭貞剛は「住友家の家名を汚すようなことがあってはならない」と足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無人島への精錬所移転を計画。1895年四阪島を買収、翌年着工、総費用は当時銅山年収の1.5倍以上に相当する170余万円に達しました。1899年の大洪の影響で、四阪島への移転は2年遅れ、1904年に操業が開始されました。
 しかし、移転してみると期待に反して被害は減らず、むしろ汚染地域が拡大してしまいました。周辺地域では、1908年には米麦とも収穫量が激減しました。
 これを受けて、愛媛県や被害郡の町村長は連携して、国に対して被害の救済を住友側に求めました。1910年、農商務相の調停で煙害賠償金の支払いと農作物の生育に重要な期間、10日間の操業停止で、住友側と住民の交渉は決着しました。
 政府は日立、小坂銅山など全国的に激しくなってきた鉱毒問題に対処するため、1915年に建設費35万円で低い煙突6本を四阪島に設置しましたが、効果なくこの対策は失敗しました。
 その後高い煙突を建てたり電気集塵機を導入し排ガス浄化に努めましたが、1939年に二酸化硫黄中和工場(脱硫装置)が完成するまで、莫大な賠償金を支払い続けることになりました。住友鉱業の煙害では、足尾鉱毒とは全く異なり、被害住民が、国、県、地元自治体を巻き込み、会社側に有利な対応を引き出しました。
 明治27年に別子銅山支配人となった伊庭貞剛は、赴任した別子で荒廃した山々を見て、即座に「別子全山を旧のあおあおとした姿にして、これを大自然にかえさなければならない」と決意。大造林計画に着手しました。専門技師を雇い入れて、山林計画を策定、根本対策として別子山中での焼鉱や製錬を止め、薪炭を石炭燃料に代替することを決断しました。同時に別子の山々に毎年100万本以上の植林を開始。最盛期には年間200万本を植林し、別子銅山は、徐々に本来の姿を取り戻していきました。この植林事業が、今日の住友林業の起源となっています。

観光鉱山列車
【閉山後の別子鉱山/産業遺産の活用と地方創生の取組】
 1973年、別子銅山は283年にわたる鉱山の歴史を閉じました。
 別子銅山は、その種類・時代・地域の多様さ、広さにおいて、貴重な鉱業遺跡群を形成しています。別子銅山から発展してきた新居浜市には、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業など、また工場・鉱業所だけでなく、社宅など生活の場も含めて、幅広い産業遺構群が現存し、一部は現在も用いられています。別子銅山を記念するシンボル施設として、新居浜市により端出場地区に「マイントピア別子」が整備されました。マイントピア別子では、鉱山鉄道敷跡を活かした観光用鉱山鉄道、火薬庫跡を活かした観光坑道などの地中展示施設のほか、砂金採り体験パーク、別子温泉〜天空の湯〜、売店・レストランなどを備えています。道の駅にも指定されています。
 また、ここから県道を約5kmさらに険しい山道5.5kmの東平(とうなる)地区へは、ガイド付きの観光バスが運行されています。(2022年8月現在、道路が崖崩れのため不通となり、東平へのバス運行は休止されています)用意されています。東平地区は、1916年から1930年まで、別子銅山採鉱本部が置かれていました。このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校までありました。閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが現存し、歴史資科館や、保安本部跡を利用したマイン工房、花木園、高山植物園、子供広場などがあります。『東洋のマチュピチュ』と呼ばれ、観光客に親しまれています。

別子銅山記念館
 1975年、別子銅山記念館が開館しました。別子銅山は、江戸・明治・大正・昭和の4時代283年にわたり、銅を産出し続けました。開坑から閉山まで一貫して住友が経営した、日本はもとより世界でも例のない銅山であるため、普通なら散逸していてもおかしくない数々の貴重な史料を見ることができます。前庭には、別子鉄道で活躍した1形蒸気機関車(クラウス)や電機機関車などが展示されています。
 新居浜市では、歴史的意義を風化させないことを目的として、発祥の地の旧別子の遺産群、それに続く東平(とうなる)、 端出場(はでば)、筏津(いかだつ)、星越(ほしごえ)の遺産を整備し、新たな地方創生の拠点としています。近代日本を切り開く礎となった産業開発の歴史、さらにはその後の環境の復元という取組に着目し、2007年に石見銀山が、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録が決定されたこともあって、別子銅山も世界遺産登録を目指す動きがあります。
 新居浜市には、企画部内に「別子銅山文化遺産課」を設け、産業遺産を守り、地域の魅力発信に資する取組を行っています。 

参考資料:
住友グループ広報委員会「住友の歴史」
https://www.sumitomo.gr.jp/history/
新居浜市別子銅山文化遺産課のHP
https://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/dozan/
https://youtu.be/GHEadpbPkI0
外岡豊「足尾鉱毒と明治時代の鉱業」
http://env.ssociety.net/20140423_3.pdf


四大鉱山年表