日立市のシンボルである平和通りの桜並木を次の世代に引き継いでいくため、衰弱して枯れてしまう危険が迫っているソメイヨシノを、順次、ソメイヨシノの若木に植え替えていく事業が進んでいます。
 2022年度は、8本の弱ったサクラが伐採されました。植えられている間隔を調整するため、5本の若木が植樹されます。
 「日本さくら名所100選」に選定されている日立市平和通りのサクラ並木。植樹から70年が経過し樹勢の衰えが目立つことから、日立市は昨年度、サクラの更新費用に充てるため、初めてクラウドファンディングに取り組みました。
 2021年6月14日から募集を開始し、30日までの約2週間で目標額の400万円に対して、6倍以上の2503万円が集まりました。
 このクラウドファンディングは、今年も行われ2600万円が集まりました。
1951年ごろの平和通り
 平和通りに桜が植えられたのは、1951年4月3日、当時の友末洋治茨城県知事と高嶋秀吉日立市長が記念植樹を行ったことが始まりです。その後、同年10月に地元の人たちの協力により、国道6号からけやき通りまでの約600m区間の両側に75本のソメイヨシノが植えられました。
 また、商店街などの地元有志の強い要望もあり、16年後の1977年に、けやき通りから日立駅前までの約330m区間にもソメイヨシノが植えられ、当初からの桜と合わせ、合計115本(当時)の桜並木が完成しました。

オオシマザクラ
なぜ、サクラが日立市のシンボルになったのか?
 首都東京から約130km離れたこの地が発展するのは、明治政府の銅輸出解禁による需要増大等を背景に、1905年(明治38年)、久原房之助氏が、それまで採算のとれなかった銅山(赤沢銅山)に近代資本を投入し、銅の採掘を本格化したことに始まります。久原房之助が起こした日立鉱山は、日産コンツェルンに発展します。現在のJX金属やENEOS、日立製作所、日産自動車グループなどのルーツとなります。その後、外国技術に頼らざるを得なかった当時の電気機械分野において、小平浪平氏が自主技術による製品開発を志し、1910年(明治43年)に、第1号製品となる5馬力誘導電動機の製作に成功しました。これが、日立製作所の起源です。
 こうして、近代産業の礎がつくられる一方で、銅の製錬増大に伴い、排煙による煙害の問題が広域化し、深刻化していきました。
 そのような中で、地域住民と鉱山は「共存共栄」の道を探り、試行錯誤を繰り返しながら、1915年(大正4年)、当時世界一の大煙突(高さ115.7m)を建設し、煙害問題を克服していきました。
 同時に、煙害により草木が枯れ地肌があらわになった山々に、耐煙樹種であるオオシマザクラを中心に、日立鉱山は約870haに及ぶ山肌に約500万本の植林を行うとともに、500万本を超える苗木を地域住民へ無料配布するなど、自然環境回復への地道な努力が続けられ、現在では、鉱山跡地周辺は、深い緑の山々に包まれています。
 その後、オオシマザクラがうまく育つようになると、この苗木にソメイヨシノの苗を接ぎ木し、大量に作りだし、社宅周辺、学校や道路沿いなどに約2000本を植樹しました。
 これが、日立市の春を彩る桜のルーツであり、本市のシンボルとして今まで引き継がれてきたのです。