
近年、社会を覆ってきた漠然とした不安や閉塞感。その根源にあるものと向き合い、解決への手を打つことがポストコロナの日本に大切であると、慶應義塾大学の井手英策教授は語っています。聖教新聞のインタビュー記事(2022年10月21日付け、22日付け)より、その概要をまとめました。
井手英策氏のプロフィール:
いで・えいさく 1972年、福岡県久留米市生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。日本銀行金融研究所、東北学院大学、横浜国立大学を経て、現在、慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。著書に『どうせ社会は変えられないなんてだれが言った?』『欲望の経済を終わらせる』『いまこそ税と社会保障の話をしよう!』『幸福の増税論』『ふつうに生きるって何?』『18歳からの格差論』ほか多数。最新著は『10歳から使ってほしい みんなのお金とサービス大事典』。2015年大佛次郎論壇賞、2016年度慶應義塾賞を受賞。
日本に共通の「将来不安」
――「生きづらさ」という言葉を多く見かけるようになりました。漠然と感じていても、それを明確な形で言葉に表すことができない人も多いのではないでしょうか。
生きづらさには、2種類あると思います。一人一人が個別に抱えている生きづらさと、この社会が共有している生きづらさです。「多様な生きづらさ」と「共通の生きづらさ」と言えるかもしれません。私は学者ですので、普遍性を探究する形で、後者の「共通の生きづらさ」から始めたいと思います。
現代の日本に共通の生きづらさは、一言でいえば「将来不安」です。
日本は、1997年で勤労者世帯の実収入が頭打ちとなり、今もそれを越えられていません。実収入が300万円未満の世帯が全体の3割、400万円未満が5割弱を占めます。これらの数字は、平成元年度の割合とほぼ同じです。
大切なのは、現在は、共稼ぎの世帯が圧倒的に多いということ。つまり、二人で働くようになったのに、世帯所得が約30年前と同じ水準だということです。
この間、自己責任が問われる社会になりました。日本は、現役世代への暮らしの保障が弱い。医療や子どもの教育、家の購入にかかる費用、老後の備えなどは、「自分の貯金でなんとかする」ことが前提になっています。
高度経済成長期のように、「頑張れば報われる」「明日は今日より豊かだ」と皆が思えた時代であれば、自己責任でも良かったでしょう。もちろん当時も、低所得者層、働けない人、障がいのある人など、自分の力だけでは生きていけない人はいたわけですが、社会全体で、そうした人々を支える余裕がありました。
では、日本で低成長が続く今、大勢の人たちが果たして自己責任で生きていけるのか。貯蓄するのが難しいのに、貯蓄しないと生きていけない現実がある。ゴールも解決方法も見えません。これが、大きな将来不安となって共有されていると思うのです。
だから、親を介護するのも、子どもを何人つくるかというのも、全てを経済的なコストを踏まえて考えてしまう。愛や慈しみの対象である人の存在が、重荷に感じられてしまう。そんな生きづらさの根源にある問題を解決したいと思っています。

救われる側は負い目を感じる
――井手教授の発信からは、「社会を変える」という強い思いが感じられます。
それには私の生い立ちが影響していると思います。
私は、母とその妹である叔母との3人の家庭で育ちました。2人は私に恥ずかしい思いをさせまいと頑張ってくれましたが、小さな借家住まいの極貧生活でした。窓ガラスが割れた浴室には隙間風が吹きました。それでもほかの部屋よりは寒くないからと、ぬるま湯に漬かってぶるぶる震えながら本を読む。それが私の少年時代でした。
家のために叔母が働き、母も店をやって、私を大学にまで行かせてくれました。しかし、1990年代初頭にバブル経済が崩壊した後は、借金が雪だるま式に増えていきました。
学生生活を支えてくれた母と叔母には、感謝の言葉しかありません。ただ私は、卒業して会社勤めをせず、大学院に行きたいと母に打ち明けました。貧しかったのに、です。電話越しの母は10秒くらい、沈黙しました。そして一言、「あんたのよかごつせんね(自由にしなさい)」と言ってくれました。すべてをのみ込んでくれたのです。
借金は、母の友人が、私にお金を工面してくれたことで清算できました。そんな、私と家族の命の恩人に対して、私は感謝するどころか、心ない言葉をぶつけてしまいました。申し訳なくて、今でも夢にうなされます。
なぜ、そんなことをしてしまったのか。確かに、人を助けるのはいいことです。わが家も、母の友人の善意に救われたのです。それでも、助けられる側には、どうしても負い目が生まれる。心ない言葉も、その恥ずかしさをごまかすためだったのです。
目の前に弱者がいれば、どうやって助けようかと考えることが、これまでの社会で必要とされてきたことでした。しかし、そこから一歩踏み出して、そもそも「弱者を生まない」社会をつくらなければいけないのではないか。その思いが、私の研究の原動力です。
現状肯定という名の諦め
――こうした現代に生きる若者たちの姿について、大学で学生たちと接する中で、どう感じていらっしゃいますか。
生きづらさを実感しているというよりも、多くの識者が指摘するように、現状肯定という名の「諦め」が顕著であるのが、現代の若者の特徴ではないでしょうか。
だから例えば、「あなたは今、満足していますか」と聞けば、若者の生活満足度は、上の世代よりも明らかに高い。所得は低下し、貯蓄は難しくなり、生活不安は高まっているのに、満足度は高い。パラドックス(逆説)です。
なぜ若者が、「諦めて」しまっているのか。
一つの理由は、いい大学に入り、勉強して、いい会社に入れば一生安泰といった、かつての「成功モデル」が破綻してしまったからです。今では、どれだけいい大学を卒業し、いい会社に就職しても、将来が安心とは言い切れません。どこに向かって、どのように生きればいいのかが見通せない時代を、現代の若者は生きています。
もう一つの理由は、子どもが「投資の対象」になってしまったことです。所得の低下とともに、子どもの数を限る世帯が増え、親たちは、一人や二人しかいない子どもに、ありとあらゆるエネルギーと財力をつぎ込むようになりました。
投資には、必ずリターンを求めます。せっかく学校に行かせたのに、新しいことに挑戦させて失敗するようなリスクは、取りたくない。親たちも、学校も、子どもたちに挑戦や冒険をさせなくなります。すると子どもたちは、挑戦の仕方を知らないまま、反抗期も経験したことのないような大人になるわけです。そうすると、現実の競争社会にいきなり直面する。そこで心が折れてしまう若者も多くいます。
苦労も喜びも分かち合う世の中を
――自分の環境を「変えられる」とは思えない。そんな無力感が社会に広がっている状況を、どのように打開すべきでしょうか。
内閣府のある調査によると、暮らしの水準がどれくらいかを聞いたとき、回答者の93%が「中流」、4%が「下流」と答えています。明らかに格差が広がり、相対的貧困率も十数%の日本では、理屈で考えても、十数%は「貧困層」のはずであるにもかかわらずです。また、別の国際調査では、自分は「中の下」だと考えている人が、突出して高い国が日本でした。
自分は「中の下」、つまり、ギリギリのところで踏ん張っていると信じたい人が、大勢いるのですね。そのため、「生活が苦しい人を助けますよ」といっても、社会の大勢の人々は振り向いてくれません。
そうではなく、中間層も含めて、「みんなが助かる」ビジョンを描くことが大切なんです。みんなが助かる世の中は、当然、弱い立場に置かれた人たちも助かる世の中になっていく。そういうふうに発想を切り替えないといけない。
かつては、大半の人が自分の力で生きられる中、一部の人が苦しんでいた時代でした。しかし今では、苦しむ人が多い時代です。困っている人を助けようというだけの考え方は、説得力がなくなっている。「苦しみをいかに分かち合うか」という考えに、シフトすべきだと思うのです。
――この観点から、井手教授が提唱しているのが、「ベーシックサービス」という考え方ですね。
ベーシックサービスは、医療や介護、教育、障がい者福祉など、人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを無償化する政策です。最大の特徴は、サービスは必要な人しか使わないので財源を大幅に抑えられる点です。病気でなければ病院には行きませんよね。
もう1点、ベーシックサービスは、民主主義を促進する政策です。サービスといっても、何を無償化するのか。何から始めるのか。どの税金でまかなうのか。ありとあらゆる点を議論してこそ、ベーシックサービスは成り立つのです。
その意味で、医療、介護、教育、障がい者福祉などを無償化するベーシックサービスは、みんなが納税者になり、みんなが受益者になる、「痛みも喜びも分かち合う」社会を実現する構想でもあります。

自己と他者の喜びを調和させ幸福を育む人間の力を信じて
誰もが安心して生きられる社会
――インタビューの前半では、医療や介護、教育、障がい者福祉など、人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを、必要な人に無償で提供する「ベーシックサービス」の理念について語っていただきました。こうした政策が実現した先に広がる、社会の展望について教えてください。
哲学者のハンナ・アーレントは、人間が労働するのは、生きるために必要だからだと述べています。生きるため、暮らしていくために必要だからこそ、長時間の労働を強いられてしまう。そうした生存生活の必要から解き放たれることが、人間が真に自由でいられる条件だというのが、アーレントの訴えでした。
実際に、非人間的な労働環境を、喜んで受け入れる人は少ないはずです。にもかかわらず、日本人の多くは、長時間労働やサービス残業をしています。本当はやりたくないような仕事に、従事している人もいるでしょう。なぜでしょうか。
それは、生きるための必要から解放されていないからですね。医療や介護、教育などにかかる費用を捻出するために、失業することも、給与水準を下げてしまうことも許されない。
私が構想しているのは、そうした生きるための必要から人間が解き放たれ、みんなが安心して生きていける社会です。
ただ、必要なサービスを人々に無償で提供したとしても、高齢者やシングルマザー、障がいのある人たちといった、収入の少ない人や働くことのできない人の命を守ることは、別の問題として解決されなければいけません。
私はそれを、食料や衣類、光熱費など、生きていくためにどうしても必要な生活扶助や住宅手当として、ベーシックサービスとは別で提供するよう提案しています。生活扶助の充実、失業給付の適用範囲の拡大、住宅手当の創設を通して、いわば「品位ある命の保障」をするというものです。
「ベーシックサービス」と「品位ある命の保障」を両輪として、誰もが安心して生きられるようになります。病気をしても、失業をしても、長生きによってお金がかさんでも、自分の力だけで何とかしなくていい。企業の言いなりにならずに定時に帰れるようになれば、家族との時間が増え、一緒に家で食事をしたり、趣味や地域活動に参加する時間もできたりします。
もちろん私は、経済成長も競争も否定しません。お金持ちを目指すのも自由ですが、一方で、過度な経済成長に依存しなくても生きられる社会を目指す必要がある。選択肢が与えられることが、決定的に重要だということです。
いい大学や会社に入ることだけが“勝ち組”であれば、生き方が強制される。就職活動をしない自由、都会だけでなく自分に合った好きな場所で暮らす自由なども、数ある選択肢として人生に広がっていく。そうした社会を実現したいと思っています。
多様性の対極に「普遍性」を置く
――生き方の選択肢が増えることは、人々が持つ多様な価値観が尊重されていくということでもあります。
その通りだと思います。ただ、私が気を付けているのは、多様性を尊重するのも一つの価値であり、押し付けになってはいけないということです。特に近年は、SDGs(持続可能な開発目標)の実現を目指す流れの中でも多様性がうたわれますが、「みんな同じでなくていい」ということは、ともすれば社会が断片化され、分断を加速させることにつながりかねないと危惧しています。
大事なのは、多様性の対極に「普遍性」をきちんと置くことです。最近、知り合いの創価学会員の方から薦めていただき、池田名誉会長の『法華経の智慧』を読み深めていますが、その中に「一乗」(注)という言葉がありました。さまざまな教えを仏が説いた真意は、全ての人を幸福へと導く「一乗」を説くことにあった、と。
それは、普遍性ですよね。こうした普遍性という基盤があってこそ、個々の幸福という多様性を追求することが、可能になるのではないでしょうか。
学会員の皆さんにとっての普遍性が、全ての人を幸福へと導く「一乗」であるならば、財政学者である私にとっての普遍性が、「ベーシックサービス」の思想なのです。
みんなで税金を払い、みんなで恩恵を受ける。痛みも喜びも、分かち合う。誰も排除することなく、全ての人々を包摂していくという普遍性です。
その意味で、ベーシックサービスは、偉大な「社会の共同事業」であると言えるかもしれません。そうした条件を整えることによって、他方で、本来、多様であるはずの人間が、事実として多様な生き方を選び取れるようになる。それぞれが抱える生きづらさに、向き合っていくことができると思うのです。
(注)成仏のための唯一の教えの意で、全ての者が成仏できるという法華経の教えのこと。
地域をつなぐ「接着剤」の存在
――個別具体的な「多様な生きづらさ」に向き合う上で、何が大切でしょうか。
強調しなくてはならないのは、ベーシックサービスのような普遍的な保障が行われたからといって、一人一人が抱えている生きづらさや苦しさの改善を、個人任せにする社会であってはいけないということです。
だからこそ、仕組みや制度を通じて、一人一人の痛みを緩和していくことが大切になります。私が重要視しているのは「ソーシャルワーク」です。各人が抱えている生きづらさには、背景が無数にある。ソーシャルワークとは、それぞれが抱えている生きづらさを改善するために、周囲の人たちや問題の背景に、アプローチしていく仕事のことです。
例えば不登校に苦しむ子どもがいて、その原因に親のネグレクト(育児放棄)があったとします。その親がなぜネグレクトするのか、親のどんな状況がネグレクトを生んでいるかという点までアプローチすることが欠かせません。その場合、家庭の貧困、介護の負担、夫婦間の不和、身体的な不調など、思い浮かぶ理由は無数にあります。
とはいっても、学校の先生やカウンセラー、あるいは児童相談所や児童養護施設等の専門員が、家庭の中に入り込んで問題を見極めるのは、相当困難なことです。
しかし一方で、その家族の近隣に住む人たちは、「あそこのお子さん、いつも傷んだ靴をはいているな」とか、「あの家から、時々、大きな声が聞こえてくるな」といった、とても細かい様子を知っていたりするわけですね。そういうところから、家庭の中の問題が掘り起こされていきます。
学校や専門家に、そうした情報がきちんと届けば、問題の根っこにアプローチするきっかけも生まれてくると思います。
ここから見て取れるのは、「どこかの機関の誰かが責任を持つ」というアプローチでは、問題の根本的な解決には至らないということです。そして同時に、地域に埋もれているさまざまな情報を、必要な行政組織や制度につないでいく「接着剤」のような役割を果たす人たちの、重要性が浮かび上がります。人的、制度的な資源をつなぎ合わせて、個人の問題にアプローチしていくのがソーシャルワークなのです。
ただ私は、ソーシャルワークをただ仕事という位置付けに限定するのではなく、もっと広い意味で捉えるべきだと考えています。人々が横につながり合い、互いが互いをケアし、何かあった時には「あそこの〇〇さんが」といった情報が共有されていく――そうした地域をつくる活動も、ソーシャルワークそのものだと思うのです。
いわば、地域の課題や住民の困りごとを解決する力を、みんなで育んでいく営みとも言えます。学会員の皆さんが日頃から実践されている活動にも、きっとこうした意義があるのではないでしょうか。
願わくは、そうした活動を宗教の内側にとどめてしまうのではなく、皆さんのネットワークで拾い上げた地域の課題を、行政や専門家にも届けていただきたいと思っています。
また、地域に根差した政治という面から、公明党にも頑張ってもらいたい。人々が抱えている問題を具体的に解決してこそ、「一人の声を聴く」公明党の真価が発揮されるのではないでしょうか。
自分の周りの人たちだけではなく、みんなが幸せになる社会を目指していく。だからこそ、制度につなげていくべきなのです。学会の皆さんが掲げてきた、全ての人のためとの普遍的な理念を、常に大切にしてほしいと思っています。
「人道的競争」の思想に共感
――“人間は「人と人の間」に生きる存在である”――これも、アーレントが強調した点でした。創価学会の社会的使命も、「苦も楽も共に」という仏法思想を根本として、身近な場所から社会を良い方向に向けていく実践にあります。
自分自身の生き方を絶えず内面的に問い返し、生きる力を引き出していく宗教的実践には、大きな価値があると思います。一方で、みんなが「自分」だけを突き詰めていけば社会が分断されてしまうからこそ、その対極に、世界平和や万人の幸福といった「普遍性」を常に掲げていくことが、大切になると思います。
私にとってのその普遍性は、ベーシックサービスという社会的な挑戦です。それは、人間が人間らしく生きられるための土台であるとも言えます。そうした土台があってこそ、生きる意味は何なのかといった根源的な問いに対する旅が始まる。
その旅の土台を、税金による財源を活用してつくりあげていく――それが私の提案です。税金の投入には反対だという声も、少なくないかもしれません。それでも私が税金の活用を訴えるのは、痛みを分かち合い、喜びを分かち合うことそれ自体が、人間の本質だと考えるからです。
背中を押されたような気がしたのは、牧口初代会長の、「その目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり」という言葉を読んだ時でした。牧口会長が、これを「人道的競争」と呼ばれたことに、とても感銘を受けました。 自己の喜びと他者の喜びを、調和させる力。苦しみを分かち合っていく同苦の力。それが他の動物にはない、人間が人間たるゆえんであると私は思います。
人は誰もが、自分自身の価値を追求していく存在です。その一方で、他者の幸せを考えることで、自分の幸せもより深く豊かなものになっていく。それが可能となる社会の土台をつくる力が、人間にはある。 その意味で私は、人間にとっての希望は、人間それ自体にあると言いたい。未来の希望は、私たち一人一人であると信じているんです。
――井手教授の発信からは、「社会を変える」という強い思いが感じられます。
それには私の生い立ちが影響していると思います。
私は、母とその妹である叔母との3人の家庭で育ちました。2人は私に恥ずかしい思いをさせまいと頑張ってくれましたが、小さな借家住まいの極貧生活でした。窓ガラスが割れた浴室には隙間風が吹きました。それでもほかの部屋よりは寒くないからと、ぬるま湯に漬かってぶるぶる震えながら本を読む。それが私の少年時代でした。
家のために叔母が働き、母も店をやって、私を大学にまで行かせてくれました。しかし、1990年代初頭にバブル経済が崩壊した後は、借金が雪だるま式に増えていきました。
学生生活を支えてくれた母と叔母には、感謝の言葉しかありません。ただ私は、卒業して会社勤めをせず、大学院に行きたいと母に打ち明けました。貧しかったのに、です。電話越しの母は10秒くらい、沈黙しました。そして一言、「あんたのよかごつせんね(自由にしなさい)」と言ってくれました。すべてをのみ込んでくれたのです。
借金は、母の友人が、私にお金を工面してくれたことで清算できました。そんな、私と家族の命の恩人に対して、私は感謝するどころか、心ない言葉をぶつけてしまいました。申し訳なくて、今でも夢にうなされます。
なぜ、そんなことをしてしまったのか。確かに、人を助けるのはいいことです。わが家も、母の友人の善意に救われたのです。それでも、助けられる側には、どうしても負い目が生まれる。心ない言葉も、その恥ずかしさをごまかすためだったのです。
目の前に弱者がいれば、どうやって助けようかと考えることが、これまでの社会で必要とされてきたことでした。しかし、そこから一歩踏み出して、そもそも「弱者を生まない」社会をつくらなければいけないのではないか。その思いが、私の研究の原動力です。
現状肯定という名の諦め
――こうした現代に生きる若者たちの姿について、大学で学生たちと接する中で、どう感じていらっしゃいますか。
生きづらさを実感しているというよりも、多くの識者が指摘するように、現状肯定という名の「諦め」が顕著であるのが、現代の若者の特徴ではないでしょうか。
だから例えば、「あなたは今、満足していますか」と聞けば、若者の生活満足度は、上の世代よりも明らかに高い。所得は低下し、貯蓄は難しくなり、生活不安は高まっているのに、満足度は高い。パラドックス(逆説)です。
なぜ若者が、「諦めて」しまっているのか。
一つの理由は、いい大学に入り、勉強して、いい会社に入れば一生安泰といった、かつての「成功モデル」が破綻してしまったからです。今では、どれだけいい大学を卒業し、いい会社に就職しても、将来が安心とは言い切れません。どこに向かって、どのように生きればいいのかが見通せない時代を、現代の若者は生きています。
もう一つの理由は、子どもが「投資の対象」になってしまったことです。所得の低下とともに、子どもの数を限る世帯が増え、親たちは、一人や二人しかいない子どもに、ありとあらゆるエネルギーと財力をつぎ込むようになりました。
投資には、必ずリターンを求めます。せっかく学校に行かせたのに、新しいことに挑戦させて失敗するようなリスクは、取りたくない。親たちも、学校も、子どもたちに挑戦や冒険をさせなくなります。すると子どもたちは、挑戦の仕方を知らないまま、反抗期も経験したことのないような大人になるわけです。そうすると、現実の競争社会にいきなり直面する。そこで心が折れてしまう若者も多くいます。
苦労も喜びも分かち合う世の中を
――自分の環境を「変えられる」とは思えない。そんな無力感が社会に広がっている状況を、どのように打開すべきでしょうか。
内閣府のある調査によると、暮らしの水準がどれくらいかを聞いたとき、回答者の93%が「中流」、4%が「下流」と答えています。明らかに格差が広がり、相対的貧困率も十数%の日本では、理屈で考えても、十数%は「貧困層」のはずであるにもかかわらずです。また、別の国際調査では、自分は「中の下」だと考えている人が、突出して高い国が日本でした。
自分は「中の下」、つまり、ギリギリのところで踏ん張っていると信じたい人が、大勢いるのですね。そのため、「生活が苦しい人を助けますよ」といっても、社会の大勢の人々は振り向いてくれません。
そうではなく、中間層も含めて、「みんなが助かる」ビジョンを描くことが大切なんです。みんなが助かる世の中は、当然、弱い立場に置かれた人たちも助かる世の中になっていく。そういうふうに発想を切り替えないといけない。
かつては、大半の人が自分の力で生きられる中、一部の人が苦しんでいた時代でした。しかし今では、苦しむ人が多い時代です。困っている人を助けようというだけの考え方は、説得力がなくなっている。「苦しみをいかに分かち合うか」という考えに、シフトすべきだと思うのです。
――この観点から、井手教授が提唱しているのが、「ベーシックサービス」という考え方ですね。
ベーシックサービスは、医療や介護、教育、障がい者福祉など、人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを無償化する政策です。最大の特徴は、サービスは必要な人しか使わないので財源を大幅に抑えられる点です。病気でなければ病院には行きませんよね。
もう1点、ベーシックサービスは、民主主義を促進する政策です。サービスといっても、何を無償化するのか。何から始めるのか。どの税金でまかなうのか。ありとあらゆる点を議論してこそ、ベーシックサービスは成り立つのです。
その意味で、医療、介護、教育、障がい者福祉などを無償化するベーシックサービスは、みんなが納税者になり、みんなが受益者になる、「痛みも喜びも分かち合う」社会を実現する構想でもあります。

自己と他者の喜びを調和させ幸福を育む人間の力を信じて
誰もが安心して生きられる社会
――インタビューの前半では、医療や介護、教育、障がい者福祉など、人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを、必要な人に無償で提供する「ベーシックサービス」の理念について語っていただきました。こうした政策が実現した先に広がる、社会の展望について教えてください。
哲学者のハンナ・アーレントは、人間が労働するのは、生きるために必要だからだと述べています。生きるため、暮らしていくために必要だからこそ、長時間の労働を強いられてしまう。そうした生存生活の必要から解き放たれることが、人間が真に自由でいられる条件だというのが、アーレントの訴えでした。
実際に、非人間的な労働環境を、喜んで受け入れる人は少ないはずです。にもかかわらず、日本人の多くは、長時間労働やサービス残業をしています。本当はやりたくないような仕事に、従事している人もいるでしょう。なぜでしょうか。
それは、生きるための必要から解放されていないからですね。医療や介護、教育などにかかる費用を捻出するために、失業することも、給与水準を下げてしまうことも許されない。
私が構想しているのは、そうした生きるための必要から人間が解き放たれ、みんなが安心して生きていける社会です。
ただ、必要なサービスを人々に無償で提供したとしても、高齢者やシングルマザー、障がいのある人たちといった、収入の少ない人や働くことのできない人の命を守ることは、別の問題として解決されなければいけません。
私はそれを、食料や衣類、光熱費など、生きていくためにどうしても必要な生活扶助や住宅手当として、ベーシックサービスとは別で提供するよう提案しています。生活扶助の充実、失業給付の適用範囲の拡大、住宅手当の創設を通して、いわば「品位ある命の保障」をするというものです。
「ベーシックサービス」と「品位ある命の保障」を両輪として、誰もが安心して生きられるようになります。病気をしても、失業をしても、長生きによってお金がかさんでも、自分の力だけで何とかしなくていい。企業の言いなりにならずに定時に帰れるようになれば、家族との時間が増え、一緒に家で食事をしたり、趣味や地域活動に参加する時間もできたりします。
もちろん私は、経済成長も競争も否定しません。お金持ちを目指すのも自由ですが、一方で、過度な経済成長に依存しなくても生きられる社会を目指す必要がある。選択肢が与えられることが、決定的に重要だということです。
いい大学や会社に入ることだけが“勝ち組”であれば、生き方が強制される。就職活動をしない自由、都会だけでなく自分に合った好きな場所で暮らす自由なども、数ある選択肢として人生に広がっていく。そうした社会を実現したいと思っています。
多様性の対極に「普遍性」を置く
――生き方の選択肢が増えることは、人々が持つ多様な価値観が尊重されていくということでもあります。
その通りだと思います。ただ、私が気を付けているのは、多様性を尊重するのも一つの価値であり、押し付けになってはいけないということです。特に近年は、SDGs(持続可能な開発目標)の実現を目指す流れの中でも多様性がうたわれますが、「みんな同じでなくていい」ということは、ともすれば社会が断片化され、分断を加速させることにつながりかねないと危惧しています。
大事なのは、多様性の対極に「普遍性」をきちんと置くことです。最近、知り合いの創価学会員の方から薦めていただき、池田名誉会長の『法華経の智慧』を読み深めていますが、その中に「一乗」(注)という言葉がありました。さまざまな教えを仏が説いた真意は、全ての人を幸福へと導く「一乗」を説くことにあった、と。
それは、普遍性ですよね。こうした普遍性という基盤があってこそ、個々の幸福という多様性を追求することが、可能になるのではないでしょうか。
学会員の皆さんにとっての普遍性が、全ての人を幸福へと導く「一乗」であるならば、財政学者である私にとっての普遍性が、「ベーシックサービス」の思想なのです。
みんなで税金を払い、みんなで恩恵を受ける。痛みも喜びも、分かち合う。誰も排除することなく、全ての人々を包摂していくという普遍性です。
その意味で、ベーシックサービスは、偉大な「社会の共同事業」であると言えるかもしれません。そうした条件を整えることによって、他方で、本来、多様であるはずの人間が、事実として多様な生き方を選び取れるようになる。それぞれが抱える生きづらさに、向き合っていくことができると思うのです。
(注)成仏のための唯一の教えの意で、全ての者が成仏できるという法華経の教えのこと。
地域をつなぐ「接着剤」の存在
――個別具体的な「多様な生きづらさ」に向き合う上で、何が大切でしょうか。
強調しなくてはならないのは、ベーシックサービスのような普遍的な保障が行われたからといって、一人一人が抱えている生きづらさや苦しさの改善を、個人任せにする社会であってはいけないということです。
だからこそ、仕組みや制度を通じて、一人一人の痛みを緩和していくことが大切になります。私が重要視しているのは「ソーシャルワーク」です。各人が抱えている生きづらさには、背景が無数にある。ソーシャルワークとは、それぞれが抱えている生きづらさを改善するために、周囲の人たちや問題の背景に、アプローチしていく仕事のことです。
例えば不登校に苦しむ子どもがいて、その原因に親のネグレクト(育児放棄)があったとします。その親がなぜネグレクトするのか、親のどんな状況がネグレクトを生んでいるかという点までアプローチすることが欠かせません。その場合、家庭の貧困、介護の負担、夫婦間の不和、身体的な不調など、思い浮かぶ理由は無数にあります。
とはいっても、学校の先生やカウンセラー、あるいは児童相談所や児童養護施設等の専門員が、家庭の中に入り込んで問題を見極めるのは、相当困難なことです。
しかし一方で、その家族の近隣に住む人たちは、「あそこのお子さん、いつも傷んだ靴をはいているな」とか、「あの家から、時々、大きな声が聞こえてくるな」といった、とても細かい様子を知っていたりするわけですね。そういうところから、家庭の中の問題が掘り起こされていきます。
学校や専門家に、そうした情報がきちんと届けば、問題の根っこにアプローチするきっかけも生まれてくると思います。
ここから見て取れるのは、「どこかの機関の誰かが責任を持つ」というアプローチでは、問題の根本的な解決には至らないということです。そして同時に、地域に埋もれているさまざまな情報を、必要な行政組織や制度につないでいく「接着剤」のような役割を果たす人たちの、重要性が浮かび上がります。人的、制度的な資源をつなぎ合わせて、個人の問題にアプローチしていくのがソーシャルワークなのです。
ただ私は、ソーシャルワークをただ仕事という位置付けに限定するのではなく、もっと広い意味で捉えるべきだと考えています。人々が横につながり合い、互いが互いをケアし、何かあった時には「あそこの〇〇さんが」といった情報が共有されていく――そうした地域をつくる活動も、ソーシャルワークそのものだと思うのです。
いわば、地域の課題や住民の困りごとを解決する力を、みんなで育んでいく営みとも言えます。学会員の皆さんが日頃から実践されている活動にも、きっとこうした意義があるのではないでしょうか。
願わくは、そうした活動を宗教の内側にとどめてしまうのではなく、皆さんのネットワークで拾い上げた地域の課題を、行政や専門家にも届けていただきたいと思っています。
また、地域に根差した政治という面から、公明党にも頑張ってもらいたい。人々が抱えている問題を具体的に解決してこそ、「一人の声を聴く」公明党の真価が発揮されるのではないでしょうか。
自分の周りの人たちだけではなく、みんなが幸せになる社会を目指していく。だからこそ、制度につなげていくべきなのです。学会の皆さんが掲げてきた、全ての人のためとの普遍的な理念を、常に大切にしてほしいと思っています。
「人道的競争」の思想に共感
――“人間は「人と人の間」に生きる存在である”――これも、アーレントが強調した点でした。創価学会の社会的使命も、「苦も楽も共に」という仏法思想を根本として、身近な場所から社会を良い方向に向けていく実践にあります。
自分自身の生き方を絶えず内面的に問い返し、生きる力を引き出していく宗教的実践には、大きな価値があると思います。一方で、みんなが「自分」だけを突き詰めていけば社会が分断されてしまうからこそ、その対極に、世界平和や万人の幸福といった「普遍性」を常に掲げていくことが、大切になると思います。
私にとってのその普遍性は、ベーシックサービスという社会的な挑戦です。それは、人間が人間らしく生きられるための土台であるとも言えます。そうした土台があってこそ、生きる意味は何なのかといった根源的な問いに対する旅が始まる。
その旅の土台を、税金による財源を活用してつくりあげていく――それが私の提案です。税金の投入には反対だという声も、少なくないかもしれません。それでも私が税金の活用を訴えるのは、痛みを分かち合い、喜びを分かち合うことそれ自体が、人間の本質だと考えるからです。
背中を押されたような気がしたのは、牧口初代会長の、「その目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり」という言葉を読んだ時でした。牧口会長が、これを「人道的競争」と呼ばれたことに、とても感銘を受けました。 自己の喜びと他者の喜びを、調和させる力。苦しみを分かち合っていく同苦の力。それが他の動物にはない、人間が人間たるゆえんであると私は思います。
人は誰もが、自分自身の価値を追求していく存在です。その一方で、他者の幸せを考えることで、自分の幸せもより深く豊かなものになっていく。それが可能となる社会の土台をつくる力が、人間にはある。 その意味で私は、人間にとっての希望は、人間それ自体にあると言いたい。未来の希望は、私たち一人一人であると信じているんです。
