眼前に青く広がる太平洋、そして日立のまち並み。この自然の丘を利用したかみね公園の中に、ゾウ、キリン、カバなどの大型動物からレッサーパンダ、チンパンジー、ペンギン、は虫類など約100種540点の動物が生活をしている「かみね動物園」があります。かみね動物園は、日立市民にとって誇りの施設。市内外の多くの皆さんに親しまれている北関東一の動物園です。
その歴史は、1957年に遡ります。前年、日立市神峰公園(現在は「かみね公園」)が都市公園法の適用を受け動物園を整備することとなり、園内でニホンザルやツキノワグマを飼育したのが、その始まりです。開園当時は入園料は無料でした。
1958年、インドゾウ「みね子」がかみね動物園にやってきました。これを期に有料化されました。かみね動物園は、市民に身近な動物園として人気を集め、幼稚園や小学校の遠足の定番として愛されました。昭和45年には、年間来園者が45万人を超えました。
しかし、これをピークに来園者は減少に転じ、特に平成10年以降は年間30万人を下回る状況となりました。
この時期、市営のかみね動物園を県に移行すべきとの議論さえ巻き起こりました。
そのような状況の中、当時の樫村千秋市長(故人)は、かみね公園のリニューアルを決断。新たな園長に生江信孝さんが抜擢されました。
その後、新チンパンジー舎、ゾウの屋外グラウンド。新サル舎「サルの楽園」。新クマ舎「クマのすみか」。爬虫類と日立市の鳥ウミウを展示する「はちゅウるい館」。新ニホンザル舎「ニホンザルのひろば」。新レッサーパンダ舎「レッサーパンダの竹林」。新猛獣舎「がおーこく」と、毎年のように施設の改修が行われました。
来園者も増加に転じ、コロナ禍前の令和元年には、35万人を超えるまで回復しました。
いま、かみね動物園には、ジャイアントパンダを招へいしようという運動が高まっています。
平成31年3月、大井川和彦知事が、かみね公園へのパンダ誘致を発表しました。大井川知事は記者会見で、「北関東で最大規模を誇る日立のかみね動物園に、パンダを誘致することによって、その価値を再発見していただくきっかけになるのではないかという狙いがあります。首都圏では上野動物園がありますが、非常に混雑しているということと、首都圏に近いかみね動物園に誘致することによって、パンダを含めた動物を見ることができる施設ということで、日立市をはじめとする県北の振興に大きく寄与すると思っています」(発言趣旨)と語りました。
私は、パンダ誘致は大変素晴らしい取り組みであると思います。
と同時に、現状のかみね動物園改革にも取り組むべき課題はたくさんあると思います。その一つひとつを着実に行うことで、来園客50万人を達成することは可能だと確信します。
動物園改革だけに止まらず、道路整備や来園客を迎える環境整備に、一層努力する必要があります。
以下、茨城新聞の記事(2023年1月4日付け)を引用します。
写真上:現在かみね動物園には2頭のメスのゾウが居ます。その水浴びの様子を2006年7月にカメラに収めました。かみね動物園の50周年記念祭の写真展で、最優秀賞をいただいた一枚です。
1958(昭和33)年、飼育員だった本郷正直は突然命じられた。
前年に開園したばかりの茨城県日立市かみね動物園では、施設建設が間に合わず、海外から来たインドゾウが上野動物園で待機していた。上京して世話をしろということだった。
上野での3カ月を経て、ゾウを乗せたトラックが日立へ向けて出発する。本郷も荷台に乗り込んだ。ところが思わぬ珍道中となる。
国道6号を真っすぐ走るはずが、運転手が石岡市周辺で道を間違えて迷った。路肩に停車し、途方に暮れていると、いつの間にか周囲は人だかり。「何だこりゃ」「でかいな」。格子越しに見るゾウに子どもらは目を丸くした。
再出発後、ようやく日立市に入ると、長い上り坂の途中で、トラックのエンジンが停止。日が暮れる中、すまし顔のゾウを横目に、修理に当たった。
翌年、ゾウは一般公募で「みね子」と名付けられる。一躍人気者となり、動物園の名を一気に広める立役者となった。
苦労は続く。みね子の体重を量るため、約2キロ離れた駅前のセメント工場まで街中を歩いていく。背中の籠に果物を入れて先導したまでは良かったが、台秤(はかり)が揺れて驚いたみね子が鳴き声を上げて走り出し、周囲は大慌てとなった。それでも、みね子はみんなから好かれた。園の象徴だった。
29年(昭和62年)たち、別れの時が来る。本郷は毎晩駆け付け、薬を飲ませ、寝返りさせてやった。「最初と最期を担当できた。不思議な縁というか、絆だった」と振り返る。お別れ式には市民が長い列をつくった。
動物園を含むかみね公園は神峰山の山裾にある。企業城下町で公園の造成が始まったのは終戦から3年後のこと。「市民が家族と楽しむことができ、明日の勤労意欲を向上させる」という趣旨だった。
ところが、財政難から工事は進まず、しびれを切らした地元住民が5年後に約700人の会員を集めて整備促進会を発足。献木運動などを展開し、商工会議所を通してトラやライオンを寄贈するなど、市民が後押しした。
ニホンザルなど4種7点で始まった小さな園は、現在約100種540の動物がいる北関東有数の園に成長。年間35万人が訪れる。
動物園業界には「生涯3回説」がある。幼い頃に親に連れられて。2回目は遠足で。そして親となって子どもを連れ…。同園も同じく、たくさんの人の思い出の宝庫だ。
園長の生江信孝自身も「楽しい思い出がたくさん詰まった場所」と話す。市職員から2007年に就任すると、レジャーは多様化し、バブル崩壊後から入園者数は低迷を続けていた。
当時の樫村千秋市長(故人)からは「園の再生」を命じられた。北海道旭川市の旭山動物園の復活劇を信じ、「もし駄目なら閉園」と鼓舞された。
開園50周年を機に始まったリニューアル事業で大きく変貌。老朽化していた施設が、野生環境を再現した獣舎へ生まれ変わると、入園者数も増加に転じた。
丸太の中の餌を道具を使って取り出すチンパンジー。届かない高さにある餌をポールを揺らして落とすクマ-。本来の行動を引き出そうと、飼育員の工夫が続く。
野生では絶滅に近い動物もいる。生江は「まずは楽しみ、その先の自然環境や生息状況にも思いをはせてもらいたい」と語る。
楽しく入り、学んで出られる動物園。理想の園へ歩みを進める。
写真下:かみね動物園50周年記念式典。これを節目に、樫村市長と生江園長のリーダーシップで、かみね動物園の復活劇が始まりました。