折れた煙突
 日立の大煙突が倒壊し、もとの3分の1の大きさになったのは1903年2月19日。今年は30年目の節目の年です。 
 30年という歳月には大きな意味があります。当然、多くの若者、児童生徒は実際の大煙突の雄姿を見ることはできません。
 国道6号を北上、日立市役所を過ぎて桐木田交差点を左折。常磐道の日立中央インター方向入口を過ぎて、程なく右手の山の中腹にレトロな煙突が見えてきます。今でも、JX金属日立事業所の現役の施設として、薄い煙を吐いているのが「日立の大煙突」です。
 1993年2月19日早朝、大煙突は下部約3分の1を残して倒壊しました。(高さ54メートル)
2月20日付けの茨城新聞一面
 もともとの大煙突は、高さ155・7メートル)。1914年(大正3年)3月に着工され、作業員延べ約3万7000人、現在の金額で4億円をかけて建設されました。当時、銅精錬から出る亜硫酸ガスの農作物への煙害は、日立市全域から高萩、常陸太田市にまで及び、公害反対、被害補償要求運動が激化しました。その対策として、山頂に煙を導く1.6キロの神峰煙道(通称「ムカデ煙道」)や、高さ36メートルのだるま煙突(通称「阿呆煙突」)が建設されましたが、いずれも効果がなく失敗。日立鉱山の創業者・久原房之助の英断により、亜硫酸ガスを高空で拡散、希釈するために世界一の煙突が建てられました。
 大煙突は、日本人だけの力で設計、施工されました。高温の煙から煙突本体を守るために、煙突の下の方部分は2重構造で作られました。日立鉱山が閉山し、銅の精錬の作業もなくなると、高温に熱せられていた煙突が急に冷え、小さな穴が開いたり、雨水がしみこむようになりました。結果、2重構造になった部分と普通の構造との繋ぎ目付近から折れてしまいました。

煙突の二重構造
 煙突の倒壊によって落下したコンクリートによって煙道の一部も破損しました。崩落したコンクリートの量は約1200トンと推定されています。
 大煙突の倒壊は煙突を長年シンボルとしてきた日立市民に大きな衝撃を与えました。マスコミ各社は日立のシンボルの倒壊を報道し、大煙突の周辺は危険防止のために立ち入り禁止とされましたが、連日多くの市民が大煙突の倒壊現場近くを訪れ、また大煙突を望む大雄院にも多くの市民が詰め掛けました。

紅葉と大煙突_AR

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