茨城県立五浦美術館(北茨城市大津町)にほど近く、旧日本の風船爆弾の戦争遺構があります。
 直径10メートル余りの大型気球を、この場所から放球し、アメリカ本土を狙ったものでした。
 半径16メートルのコンクリートのサークルが、新緑の木々の間に忽然と表れます。
 第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍は、風船爆弾によってアメリカ本土を直接攻撃することを計画。「ふ」号作戦を展開しました。大本営直属の部隊を編成し、茨城県大津に部隊本部と放球攻撃の第一大隊をおきました。
 晩秋から春先にかけ、太平洋の上空のジェット気流に乗ると、風船爆弾は50時間前後でアメリカ本土に着きます。爆弾と焼夷弾を投下したのち、和紙とコンニャクのりで作った直径10メートルの気球部は自動的に燃焼する仕組みでした。約9000個放球され、その内300個前後が到達したと言われています。
 この風船爆弾の唯一の戦果は、無辜の子どもたちでした。オレゴン州の小さな村で、5人の子どもたちと、おなかに子どもを宿していた牧師の妻が、風船爆弾の爆発で亡くなりました。アメリカ本土で敵の攻撃を受けた唯一の犠牲者となりました。
 後年、地元北茨城の人々によって、この6人の慰霊碑が建立されました。
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風船爆弾「ふ号作戦」について
 第二次世界大戦末期、日本陸軍は極秘の「ふ号作戦」を実施しました。この作戦は、いわゆる風船爆弾を使用してアメリカ本土を直接攻撃するというものでした。風船爆弾とは、和紙で作られた大きな気球に水素ガスを詰め、焼夷弾をぶら下げたものであり、偏西風に乗せてアメリカ大陸まで運び、爆弾を落下させるという仕組みです。

風船爆弾の製作現場
 この風船は直径約10メートルのもので、手漉きの薄い和紙をコンニャク糊で4〜5層に貼り合わせて作られました。風船の製造には全国の染織業者が協力し、製作には勤労動員された女子挺身隊が携わりました。巨大な風船は広いホールでコンプレッサーを使って空気を入れ、漏洩テストを行う必要があったため、東京の日本劇場や宝塚劇場、国際劇場、国技館などが使用されました。

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 風船爆弾は、約1万メートル上空の時速200〜300キロの偏西風を利用して約50時間でアメリカ大陸に到達することが計画されていました。高度保持装置を装備し、15キログラムの爆弾1個と5キログラムの焼夷弾4個、または12キログラムの焼夷弾2個を搭載していました。気温の変化により高度が上がりすぎると水素ガスを排出し、重くなれば砂袋を落として浮力を調整する仕組みになっていました。
風船爆弾の放球基地は東海岸沿いに、3カ所作られました。千葉県一宮、茨城県北茨城そして福島県いわきです。なかでも、北茨城大津基地には、第1大隊(3個中隊)が配置され、132万平方メートルの敷地に、18基の放球台、水素ガスタンク、水素ガス発生装置などが設置されました。

 「ふ号作戦」は1944年(昭和19年)秋から翌年の1945年(昭和20年)春まで展開され、福島県の勿来、茨城県大津、千葉県一宮の3地点から約9,000個の風船爆弾が放たれました。
 風船爆弾の大部分は太平洋を越えることができませんでしたが、アメリカ本土に到達したことが確認されたのは約280個でした。これにより、オレゴン州では不発弾の爆発により6人の犠牲者が出ました。この場所には「アメリカ大陸で死者を出した唯一の場所」と記した記念碑が建てられています。
風船爆弾による攻撃はアメリカ政府に大きな懸念を与え、細菌爆弾ではないかと疑われました。これに対し、約4,000人の科学者が動員され防疫態勢が整えられ、迎撃する航空隊も配備されました。